寛弘六年の紫式部

寛弘六年六月以後の作者の動静を家集の中に探してみる。家集に次の歌がある。

内裏に、水鶏(くひな)の鳴くを、七八日の夕月夜に、小少将の君

天(あま)の戸の月の通ひ路ささねどもいかなるかたにたたく水鶏ぞ

返し

槇の戸もささでやすらふ月影に何をあかずとたたく水鶏ぞ

六月は、彰子は十九日に土御門邸に帰ったと記されている(『御堂関白記』『日本紀略』)ので、六月七、八日は内裏にいたと考えられる。

その後は、家集に次の歌がある。

五節(ごせち)のほど参らぬを、「くちをし」など、弁の宰相の君ののたまへるに

めづらしと君し思はばきて見えむ摺(す)れる衣のほど過ぎぬとも

返し

さらば君山藍(やまゐ)のころも過ぎぬとも恋しきほどにきても見えなむ

作者は寛弘五年の五節について詳しく記し、これまで十一月後半の行事は毎年見てきたことを記していた。この歌は、前年まで一緒に楽しんでいた作者の不在を寂しく思った宰相の君とのやりとりであり、寛弘六年十一月の歌だと考えられる。岩波文庫の南波浩氏の注は、この歌を寛弘六年十一月の歌とする。

十一月に作者が出仕できなかったとすれば、十一月二十五日の敦良(あつなが)親王の誕生の記事が書かれていないことにも説明がつく。

十一月の五節に来られない歌からは、このころ十一月にかけて数か月、作者が引きこもっていたことが考えられる。寛弘六年の後半、数か月の引きこもり期間があったことを想定すれば、五月の日記の後に、かなりの空白があることも理解できる。

寛弘六年後半の引きこもりには、七月二十八日の具平親王の突然の死が、何らかの形でかかわりがあったことも考えられる。