小野篁は平安時代の公卿(くぎょう)で、官位は従三位まで出世したがその人生は波乱に満ちて逸話の残る人物である。遣唐使として唐に行く際に自分の乗るべき船を上司に取られたことに腹を立てて乗船を拒否した。その恨みを漢詩にして朝廷の政策である遣唐使制度を皮肉ったところ、嵯峨上皇の怒りに触れ隠岐に流されたのである。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟

と、いう和歌を隠岐に流される船の上で詠んだとされ、百人一首に残っているほどの秀でた歌詠みであった。

平安時代は物の怪という考えは一般的であり、病気になると祈祷をして取りついた物の怪を追い払うことが唯一の治療法と考えられていた。天皇の徳のなさが疫病や天災を齎もたらすと考えられており、その徳を増やす意味で罪人を恩赦にすることが頻繁に行われた。

篁も二年で許され、再び朝廷に仕えることが叶い才能が開花した。国の政策を審議する参議の地位まで上り詰めたのである。今でいえば内閣入りである。伝説として昼は朝廷に仕え、夜は冥界にて閻魔大王の側に仕えたという話が残っている。薫子が拠り所にしたのはこの伝説である。

篁の孫の小町は楊貴妃、クレオパトラと並んで世界の三大美女に数えられたばかりか百人一首にその歌が残されている。

花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

もう一人の孫である道風(みちかぜ)も藤原佐理(ふじわらのすけまさ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)と並んで書の三蹟と呼ばれ名を残した。

名門貴族であった小野家だが、藤原氏の台頭で勢力を失い篁から八代後には武蔵国守に任ぜられ東国へ左遷されてしまった。

小野家は関ケ原以降、江戸が政治の中心になると騒がしい江戸を離れ京都に戻ってきた。京都に戻った当初は京織物を江戸に流通させる呉服屋を営んで財を成したが、樹の祖父の時代に医者となって現在は父親が市中で開業している。

 

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