「こいつが」「うるさい」と、まるで他人を罵るような言葉。冷たい目。突き放すような態度。

あれは、本当に誠だったのだろうか。

菜穂子の目に、涙がにじんだ。

違う。あれは仮の姿だったのだ。病気の進行とともに、彼の性格も変わっていったのだ。パーキンソン病が、あの優しかった夫を奪っていったのだ。

そう考えると、今までの何かしらのわだかまりが、すうっと溶けていくような気がした。

胸の奥で、何年も凍りついていた感情が、ゆっくりと溶けていく。

よかった。

家に戻ってきてくれて。

吸引の必要性というより、そばに誠がいてくれること。その日常性を、もう一度感じることができる。

在宅での看取りはプロセスだから、と伊吹医師が言っていた言葉の意味が、今ならわかる気がした。

穏やかな気持ちで見守れるようになった自分がいた。数日の穏やかさののち、藤崎誠の呼吸は浅く速くなった。SpO2(血中酸素飽和度)は79%。

訪問看護から真鍋紗季に連絡が入った。

「酸素を使いましょうか」と紗季は妻に尋ねた。

妻が頷く。HOT(在宅酸素)を設置。カニューレでは上がらず、マスクに変えると91%。

発熱もあった。菜穂子は坐薬を挿入することも引き受けた。その時、菜穂子の手は震えなかった。点滴は静かに落ち続け、吸引で白い食物残渣が多量に引けた。

その夜、伊吹は医療用のSNSに短く記した。

――急変の可能性あり。娘にも連絡。

●妻の言葉

「退院して何もできなくても、そばで見ていられるだけで安心する」

訪問看護師にとって、家族が本人の死が近づいていることを許容できているかどうかが、エンドステージで最も気になる点である。おそらくこの言葉で、スタッフの不安も遠ざかったであろう。

12/24 朝、酸素マスクは外れていたが、顔色は特に異常を認めていない。

口腔は清潔。排尿はパッドでしっかり。

12/25 呼吸が変わる。肩で息をする。だが表情は穏やかだ。エアマットに交換して、家は静かに、家族の時間を取り戻していく。

伊吹は、真鍋と同行する藤崎誠の最後の訪問診療かもしれない日のベッドサイドで小さく言った。

「“在宅”は、治せない医療の時に見えてくる。寄り添うことで、治らないままでも気持ちは満足に近づく医療ができれば良いけどね」

真鍋が、目だけで「はい」と返す。若い医師の中に、在宅マインドの芽が灯るのを、伊吹は見た。

 

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