【前回記事を読む】夫の在宅医療を支える奥様からSOS——「もう限界。入院させたい」…言葉を発さない夫は、「嫌だ」と目で必死に訴えていたが…

第1章 思い出された夫婦愛(藤崎 誠から)

一方、菜穂子は、今までの思い出が胸に溢れながら鋭い感情に迫られていた。

「このままでは嫌だ」と。

菜穂子の胸に、鋭い痛みが走った。この人を、ここに置いてきてしまった。自分が楽になりたいから。吸引ができないから。もう疲れたから。そう思ってこの人をここに置いてきてしまった。

痩せていく夫の姿を見るたび、菜穂子の中で何かが崩れていった。白い病室の中で、小さくなっていく背中。ベッドに縛られるように横たわる姿。

これは、本当に誠が望んだことだったのだろうか。

「奥様は吸引を学び直すと言っています」

三浦の声は静かだった。責めるでもなく、促すでもなく、ただ静かに事実を伝える声。

伊吹は淡々と答えた。「三浦さん、受け入れの段取りをお願いします」

医療用SNS―カンファレンス記録

12/5 退院前カンファレンス(病棟Ns/相談員/ケアマネ斉藤/訪看三浦/家族)。

●入院後、酸素・点滴で炎症改善。現在は絶食。嚥下は複数回でやっと通過。

●立ち上がり・足踏みは介助下で可。意思疎通は簡単な発語。

●薬は粉砕し強とろみ。看護は日中3〜4回の吸引。

→家族希望により在宅へ。訪問入浴は嫌い、見送りの方針でいく。

いよいよ退院の日となった。

12/19 退院。玄関に冬の光が差し込んでいた。

三浦が手順を確認しながら、菜穂子の手に吸引器を持たせる。一つ一つ、丁寧に。菜穂子の手は、もう迷わない。不思議なほど、落ち着いていた。

口腔内の黒い付着物を取り除くと、薄紅の粘膜が戻ってくる。誠は開いた目で、ゆっくりと菜穂子の顔を追っている。

その時だった。

菜穂子の中に、ふいに一つの記憶が蘇ってきた。

娘を出産した後のこと。

ひどい鬱状態だった。何もできなくなった。赤ちゃんの世話も、ままならなかった。泣き声を聞くのが怖かった。自分が母親である実感すら持てなかった。

あの時、藤崎誠は、慣れない手つきで娘をあやしてくれた。

小さな体を抱きかかえ、どうしていいかわからない顔をしながら、それでも一生懸命にあやしてくれた。夜中に何度も起きて、ミルクを作ってくれた。妻の食事を作り、世話をしてくれた。

出版社で知り合った頃から、彼は優しかった。

菜穂子が沈んでいた時も、ずっと優しかった。

何も言わずに、ただそばにいてくれた。

では、この5年間の彼の姿は──。