私にとって巣鴨のあの劇場が夢の世界であったのと同じに、征児にとっては菫子の部屋で過ごすひと時が、辛く苦しくいつ芽が出るとも知れない曖昧で遠い現実を忘れさせてくれる夢の世界であったのだと。そう思うことで、征児のいない明日からの日々を菫子は前を向いて歩いていけると信じた。 

名もないアマチュア演劇集団の一員であった八代丸征児が、大手芸能事務所の若き社長に見いだされて映画初出演した『遠きメモリー』が、映画史上まれにみる爆発的ヒットを記録し、それがきっかけで征児が日本を代表する映画俳優となったのは、ずっとあとの話になる。

 

「スミコさ〜ん、面会ですよぉ。旦那さん」

看護師の桜木(さくらぎ)マリが伝えに来ると、ロッキングチェアに座った、それまで無表情だったスミコと呼ばれた老婦人の表情がぱっと輝いた。

「征ちゃん!」

弾んだ声に応えるように、こちらも満面の笑みを湛えた初老の男性が入室する。

「スミちゃん、具合はどう? 最近ずいぶん調子がいいようだって院長先生が言っていたけど」

「ええ、そうなの。ずっと分厚い雲の中を彷徨(さまよ)っていた気分だったけれど、このところ雲が切れて、なんだか晴れ間も見えてきたみたい」

「そりゃあ良かった」

男性は心底安堵した様子を見せて、手土産の小さな紫色の花束をスミコに差し出す。

「まあ、いつも綺麗なお花をありがとう。でもなぜスミレなの? 征ちゃん、いつも薔薇を一輪私の胸に挿してくれてたのに」

「そうだったかな? 俺はいつもスミレをあげていたよ」

「そう? でもいいわ、スミレでも構わない。これとっても可愛いもの」

スミコは満足そうに部屋の窓際に置いたガラスの花瓶にスミレの花束を活けた。

 

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