【前回の記事を読む】ひどく疲れているように見えても「顔見たら元気が出た。君は俺のビタミン剤だ」彼は言葉と肉体の魔力で、私を幸福の絶頂へ…
今宵、巣鴨の劇場で
こうなることはどこかで透けて見えていたのではないか。征児とそういうことになった初めての日から。
今さらながら翔太の言った「相手は役者、どこかで線引きしておけよ」が耳に痛い。そして会わない日が二か月を越したと思えたある日、アパートのメールボックスに入っていた一通の手紙が、事実上征児との別れになった。
スミちゃん、今までありがとう。
君と過ごした日々はかけがえのない俺の宝物。
でも俺は役者としてもっと高みを目指したい。いつか日本を代表する俳優になりたいのです。俺にはこれしかない。
スミちゃんが俺に期待してくれたような立派な役者になるよ。
もうあまり会えないと思うけど、どうか元気で。
切手も消印もなかったところを見ると、征児はこの手紙をここまで持ってきたということになる。ここまで来ていて、自分に会うつもりはなかったのだ。面と向かって別れ話を切り出し修羅場になるのを恐れたのか? それとももう自分に会いたい気持ちはなかったということか? 自分には会わずに去っていった…… そのことが全てを物語っているように菫子には思えた。
短すぎる手紙(長ければいいというわけでもなかったが)を読み終え、菫子は泣いただろうか? 彼女はしばらくの間、決して突然でも意外でもないこの事態を飲み込み、頭の中を整理するため鎮まっていたが、やがて思い出したように声を出して笑い始めた。止まらない笑いを体をよじって堪えながら、その目には一滴の涙も浮かばなかった。
「征ちゃんてば、征ちゃんてば、スミコの漢字も知らなかったんだ」
菫子は泣き笑いを止めることができなかった。手紙の末尾には《森田澄子様》と書かれていたからである。菫子ではなく、澄子と。
この三年、相手と自分の見ていた景色は全く違うものだったことにようやく気づき、長い夢から覚めたような一種の清々しさを、菫子は深呼吸と共に胸いっぱい吸い込んだ。喪失感とも空虚さとも、ましてや開放感とも違う。ようやく足の下に地面の感触を得たような気分だった。
征児を責める気持ちは不思議になかった。征児は役者を究めるという自らの使命を生きる道すがら菫子という駅にふと途中下車したのだろう。遊んだつもりも、もちろん騙すつもりも毛頭なかった。あの三年間は、菫子だけでなく征児にとっても間違いなく必要な時間だったのだ。