この出来事をきっかけに、私は自分自身と向き合うようになった。
介護は、きれいごとだけでは済まない。愛情があっても、疲れることはある。優しくしたいと思っていても、イライラすることはある。それは、人間として当然のことなのだ。
大切なのは、自分の感情を否定しないこと。そして、感情をぶつけてしまったときに、きちんと謝ること。母の言葉が、私にそれを教えてくれた。
私は介護者向けのカウンセリングを受け始めた。自分一人で抱え込まないために。専門家に話を聞いてもらうことで、心が軽くなることがあった。
「あなたは十分頑張っていますよ」
カウンセラーはそう言ってくれた。
「完璧を目指す必要はありません。時には怒ってしまうこともある。それを自分で責めすぎないでください」
その言葉に、私は救われた。
介護の日々の中で、私は様々なことを学んだ。
ひとつは、「昨日と同じ今日はない」ということ。認知症の症状は、日によって波がある。調子のいい日もあれば、悪い日もある。昨日できたことが、今日はできないこともある。その変化に一喜一憂せず、その日その日の母を受け入れることが大切だった。
もうひとつは、「小さな幸せを見つける」ということ。大きなイベントがなくても、日常の中には幸せな瞬間がたくさんある。一緒に食べるご飯、一緒に見るテレビ、たわいもないおしゃべり。そうした小さな幸せ を、意識して感じるようにした。
そして最も大切なことは、「今この瞬間を大切にする」ということ。未来のことを心配しても仕方ない。過去のことを悔やんでも変えられない。今、目の前にいる母と、今この瞬間を大切に過ごすこと。それが、私にできる最善のことだった。
ある日、母が突然こんなことを言った。
「恵美、私が恵美のことを忘れたらどうする?」
夕食の片付けをしていたときのことだった。私は手を止めて、母を見た。
「どうして急にそんなこと聞くの?」
「ううん、ただ聞いてみたかっただけ」
母の表情は、いつもより真剣だった。私は食器を置いて、母の隣に座った。
「そうだなあ……」
私は少し考えて、答えた。
「たぶん、毎日自己紹介するかな。『はじめまして、私は恵美です。あなたの娘です』 って」
「毎日?」
「うん。何度でも。お母さんが覚えてなくても、私は覚えてるから。何度でも、自己紹介するよ」
母は黙っていた。私は続けた。
「それに、お母さんが私を忘れても、私がお母さんを忘れるわけじゃないでしょ。私にとって、お母さんはお母さんなんだから。それは変わらないよ」
母の目に涙が浮かんだ。
「……ありがとう」
「だから、そんな心配しないで。たとえ何があっても、私はお母さんのそばにいるから」
母は私の手を握った。その手は、少し震えていた。
「恵美は、強いわね」
「強くないよ。怖いこともあるし、不安なこともある。でも、お母さんと一緒にいたいから。それだけだよ」
母は微笑んだ。その微笑みは、少し寂しげだったが、どこか安心したようにも見えた。