……それとも誰ぞに、あらぬことでも吹き込まれたか?」

亡霊の言葉は、宗佐の心の最も繊細で弱くて柔らかな部分に、まるで鋭利な刃(やいば)で切りつけて来るかのようでした。しかしあくまでも彼は心を巌のように保ち、師の教え通り、おのれを失うまいと努め続けました。亡霊はそれまでの慎ましい侍女の仮面をかなぐり捨てたかのように、邪気のこもった禍々しい口調でさらに宗佐を責め立てました。

「……隠れても無駄じゃ、宗佐。お前がこの辺りに潜んでいることは、匂いで分かるわ。……お前は何をためらっておる? 何を恐れておる? 愛しき女子(おなご)を我が物にすることこそ、男(おのこ)たる者の務めであることを、お前は知らぬのか? 男女の愛恋に善きも悪しきもないことを、お前は知らぬのか?

沙代里姫の愛しき体をおのが胸にしかと抱き締め、花のような唇におのが唇を重ね、その美しく清らかな素肌をその手で、その身で探り確かめ、味わうことの快楽(けらく)に比ぶれば、うつせみの福徳など、何ほどのものであろう?

姫様との心身合一の境地にさえ達しうるならば、たとえ二つの魂もろとも地獄に落ち、あるいは怨霊になり果てようとも、何の悔いることがあろう? ……さあ、何も迷うことはない。宗佐よ、我が呼び掛けに応え、今すぐここに出て来るのだ。そうして姫と二人、愛欲と逸楽の三昧境へと果てしなく落ちて行くのだ……」

亡霊の言葉はいつしか淫らで不吉な様相を帯び、その声も恐ろしい鬼女のものになり変わっていました。

たとえ結果として約束を破ることになったとしても、さ迷える沙代里姫の霊を成仏に導くためには、その魂との繋がりからおのれを断ち切らなければならないという宗佐の初めの心構えは、その隙間を突き、無理やりこじ開けてくるような亡霊の執拗な誘惑によって、次第に揺らぎ始めました。

姫の心を裏切ることへの罪の思いと、おのれの愛をあきらめなければならぬ苦しさは、彼の心を責め苛みました。たとえこのままおめおめと生き永らえたところで、姫のおわさぬ世を過ごし、姫に聴いてもらえぬ笛を吹くことに、一体何の意味があろうという思いが、彼の意思をくじき始めました。

さらには、果たして和尚様のおっしゃったことは真実なのであろうか、実は姫様は亡くなられてはいないのではないか、師は自分の心から煩悩を取り除くために、あえて嘘をついておられるのではないか、という疑いさえ、念頭に兆し始めました。

姫への愛とその魂の本当の救い……対峙し合う二つの心の激しい葛藤の中で、宗佐の額には次第に脂汗がにじみ始めました。

 

👉『指切り宗佐 愛恋譚』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】店を畳むという噂に足を運ぶと、「抱いて」と柔らかい体が絡んできて…

【注目記事】「今日、主人は出張で帰ってこないの」ホテルの入口で一瞬ためらったけれど、夫だって浮気をしているのだから私だって…