【前回の記事を読む】愛した姫君は未練を残した怨霊と成り、付きまとわれている宗佐。彼女を祓うためには、ある儀式が必要だが、独りで行わなければならず…
指切り宗佐 愛恋譚
七 試練
元々武家に生まれ育った宗佐ですが、寺で行われる日ごとの勤行や法要を傍らで聞くうちに、主だった経典をそらんじるほどのことはできていたのです。
薄衣の滝で心身を清めた後、宗佐は寺に戻り、揺れ動く燈明の光を受けて鈍い黄金色に輝く本堂の仏像の前に端座して両手を合わせ、恭しく礼拝しました。そしてみ仏への信仰と仏法への帰依を誓う短い経文を声高く三度朗唱し、心を鎮めました。
吹く風が涼しくなり、夕闇の迫っていることが肌で感じられるようになった頃、宗佐は住まいに戻り、師の言い付け通り縁側で座禅を組み、精神を統一し始めました。もしもこの時までに彼が拓善の教示した通りの行を間違いなく果たすことができていたなら、その周囲には結界が生じ、亡霊には彼の姿が見えなくなっているはずです。
雨はすっかり上がり、時折周囲の欅や楓の木立をそよがせて、湿った風が吹いて来ます。宗佐が禅定の境地に入り、どれだけの時が経ったか忘れた頃、本堂裏の墓地の方から、いつもの足音がひたひたと聞こえ始めました。足音が次第に近づき、縁側に面した庭で立ち止まったと思うと、あのしわがれ声が呼びかけました。
「宗佐殿……」それに応えずに宗佐は姿勢を正したまま、座禅を組み続けています。
「宗佐殿、はて……宗佐殿はいずこにおられるか、姫様がお待ちであられるぞ」その不審気な言葉の調子から、宗佐は結界によって自らの存在が亡霊から遮り隔てられていることを知りました。
「どうしたことか、宗佐の姿が、今宵は見えぬ。宗佐殿、宗佐殿……」侍女の亡霊はうろたえながら、辺りを歩き回って宗佐を探す様子です。それに構わず心を静かに保ち、宗佐は禅定を結び続けています。
「宗佐、そなたは姫様に会いとうはないのですか? 何ゆえ今宵は姿が見えぬ? 逃げておるのか? 隠れておるのか? お前を待ち焦がれている姫様の思いが、そなたには届かぬのか?」
亡霊の言葉は針のように宗佐の心を突いて来ますが、彼はあくまでも沈黙を保ち、禅定を結び続けました。亡霊は次第に語調を荒らげ、言い募りました。
「何があろうと必ず参りますと、昨晩お前は力強い声で姫に誓ったではないか? あれは偽りであったのか? 戯れであったのか? ……お前と会い、語らい、その笛の音に耳傾けることのみが、姫様の寂しき心のただ一つの慰めであった。
宗佐よ、お前こそは、姫様が初めて心を寄せ、愛した男であったのだ。にもかかわらずお前は、姫様の清らかで一途な思いを引き裂き、穢し、踏みにじろうというのか? 自らの愛が裏切られたと知った時、姫様がいかほどお嘆きになるか、いかほど心をお痛めになるか、お前には分からぬのか? ……お前はそこまで酷薄で人の心を知らぬ男であったか?