近衛忠熙は、父は左大臣近衛基前、母は大納言徳川宗睦(むねちか)の女。
文化五年(一八〇八)七月十四日生、同一三年二月二十六日に従五位上、安政の大獄後の安政六年(一八五九)三月二十八日に左大臣を辞して落飾謹慎、文久二年(一八六二)四月三十日、参朝を許され、同六月七日復飾、同月二十三日、関白内覧。
遠藤は、近衛関白に祝辞を述べ攘夷を主張するとともに藩主代理と称して朝廷に忠動を尽くす旨の建白書を提出。
この建白書提出は、氏家が知らない、遠藤の単独行為であった。
なぜ遠藤が唐突ともいえるこのような行為に及んだか。一つは煮え切らない藩の態度を変えたいとの思いがあったと考えられる。
しかし、幕府との関係を考えないことは、藩当局にとっては冷や汗ものだった。また併せ考えると遠藤の売名行為、つまりいい振りをしたのではないかと考える。
一方、これより先に仙台藩は、ある程度予測できたので但木をして江戸に急行させ、脇坂安宅(やすおり)(竜野藩主・文久二年五月老中)に対し、遠藤の京都遺使について他意のない旨を弁解させた。
また遠藤が、藩主を単独で上洛させると広言したことに対し、近衛関白から幕府に申し出で周旋するようにと伝達された。
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