二 仙台藩の迷走
文久二年(一八六二)七月、藩主慶邦は、仙台藩の尊王精神を顕わすべく近衛忠煕公の開白就任祝の使節として遠藤文七郎を起用した。
当時の仙台藩は、当然のことながら京都における尊攘の情報が少なかったので、尊攘派の遠藤をして情報を得ようとしたものである。しかし、遠藤を牽制するため副使に氏家晋を起用した。
京都留守居遠藤小三郎が、情報をどの程度報告していたか不明であるが、いずれにしても仙台藩は、他藩と比較して情報をあまり把握していなかったとの評があった。
もっとも財政窮迫の状態であったので、他藩留守居との交際に要する十分な資金がなかったことも事実ではないか。
しかし、仙台藩の場合、江戸留守居と京都留守居の職制が異なっていたという。
この点における京都留守居の役職について以下の考察がなされている。
その要約をすると、
「江戸留守居の場合、公儀使とも呼ばれ奉行・若年寄の支配下にあり、公儀との応接・交渉、他藩留守居との交渉・調整に当たる。定詰足軽を支配下における役職である。
京都留守居の場合、出入司(勘定奉行相当)の支配下にあり、会計出納、山林等の管理等に当たる民政……つまり民政・財務を担当する役職であるので公儀使と異なっていた。
そして具体的には、近江蒲生郡の伊達領の代官の支配、朝廷儀礼や公家との交際の場に必要な装束の調達・伊達家の京都で買い入れた呉服代の支払い、宮家・公家との折衝、儀礼的な交際を担当する役職であるので情報収集を行う役職ではない。
それでも藩主慶邦は、奉行の支配下に置き情勢探策のための遣い料を給付することにし、遊歴生と連携することを指図している。
遊歴生とは、特命を受け諸国探索を行う者をいう。玉虫左太夫もその任にあった。
しかし、京と仙台とは遠隔であり、情報の伝達が困難であった。
そのため京の情報を共有できないまま、仙台で決定的な重大な結果をもたらす政治路線を選択することになった」(難波信雄論文、日本歴史二〇〇八年八月号)