【前回の記事を読む】江戸時代に行われたインフレ政策…落ち込んでいる景気を刺激し好景気を図ったが、財政の原則を無視するもので…
第二章 藩主慶邦の苦悩
一 但木土佐の登場
火薬製造係の藩士松倉良輔が、銃隊の整備、兵器は元込銃の採用が必要であると建白したが、実行までに至らなかった。
但木の執政は、財政の立て直しを図り、その後、軍備を図るという現実主義であるとともに開国主義、佐幕派であった。
また元治元年頃から玉虫左太夫、若生文十郎らをして京都における情報収集活動に従事させた。
一方、芝多や遠藤文七郎らは、尊王攘夷派で改革を促進することを主張し、但木の執政を因循姑息と非難した。しかし、遠藤らの尊王攘夷思想はどの程度であったか。基本的には但木との差は少なかったとの説がある。
青年武士のなかに芝多の軍備、財政の改革を支持する一派があった。文久三年(一八六三)頃から但木の排斥運動を活発にし、元治元年三月に誹謗する貼紙をした。
またそのなかの蟹江太郎介らが、但木の暗殺を企てたが未然に発覚。
慶応元年(一八六五)十二月に蟹江らが斬首。また関係したとされて芝多民部が閉塞の処分を受けた。その後絶食して死亡。