【前回の記事を読む】天保の大飢饉で十五万人が餓死——天保七〜八年の飢饉と斉邦の死がもたらした藩政の停滞

第一章 仙台藩の内情

三 仙台藩の知行形態

普通拝領形態における給人の支配権は、殆どが年貢徴収権であり、徴収方法はその土地の肝煎に委ねられ、給人の多くは仙台屋敷に居住していたので領民との結び付きは強固なものではなかった。

四 藩政

伊達慶邦は、義兄斉邦の死去に伴い天保一二年(一八四一)九月七日、十三代藩主を襲封した。

斉邦は、登米伊達村良の四男で五代吉村の孫であり、十一代斉義が天保一〇年十一月二十七日に三十歳で死去の時、慶寿(のちに慶邦)が二歳であったので斉邦が後見をかね藩主を襲封していたのである。

天保一二年は、凶作・飢饉の影響により、藩財政が慢性的不況に陥っていた。

安政元年(一八五四)奉行職に任じられた芝多民部(柴田郡村田邑主、二千石)のもとで進められていた兵制改革や財政政策によりインフレが増していた。

兵制改革は、嘉永六年(一八五三)六月三日、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航した黒船騒動により、幕府はじめ各藩がにわかに海防策を講じ、洋式兵備を取ることになった。

仙台藩の海岸線が長いので海防のため以前から設けていた五ヶ所の唐船番所において外国船の監視を行っていたが、これを番所の所在地の領主が担当していたので、藩自体は海防政策を取っていなかった。そのため台場を築いていない。

安政三年(一八五六)七月、洋式銃隊の訓練の実施を図ったが、一門の伊達式部(登米郡寺池・要害、二万石)の政宗公以来の軍制を洋式に改革することは許されないという意見があり、洋式銃隊の採用が徹底されなかった。