同年春、講武所を新設、養賢堂を中心にして大銃の製造。安政元年(一八五四)八月、杉山台において藩主が親臨し、大砲、雷火、馬上銃の試射を行った。また、ゲベール銃の製造を始め、坂本大炊の家臣を江川太郎左衛門に入門させ砲術等を学ばせた。
その後、慶応元年(一八六五)十一月に至り、蒸気船一隻購入、慶応三年(一八六七)四月ライフル銃一五〇〇挺、ミニエー銃三七五挺を購入。
さらに四月二十五日、ミニエー銃二九〇〇挺を購入した。さらに幕府から軍艦三隻を借り受けた。
また松倉良輔が新式銃や大砲を購入したが、発送が遅れ、寒風沢に到着したのが六月二十一日だった。その時、既に戦争が始まっていた。
軍制改革にも着手した。古式和銃から西洋銃への移行が決定されていたが、現場における指揮官までは十分に育成されていなかった。
一門の涌谷伊達家が積極的であったものの他の一門では改革が遅れていた。
また、沿海線の防備として軍艦建造が求められていた。松島湾内の寒風沢に造船所を設け、三浦乾也(けんや)に洋式軍艦開成丸を建造させた。
この艦は、長さ三三・三メートル、幅七・三メートル、高さ五・八メートル、二本マスト、砲六門を備えたスマートな船であった。
気仙沼まで試運転し、江戸品川まで回漕した。そして数回江戸を往復したものの、江戸まで一か月を要し、速力が不足していた。結局時代遅れとされ、二年後に石巻で解体された。
三浦乾也は、文政四年(一八二一)江戸に生。乾也焼で知られた製陶家である。
ペリー来航後、洋式艦船の必要を老中阿部正弘に建言し、安政元年(一八五四)幕府から洋式艦船伝習を命じられた。長崎でオランダ人より造船術を学び、同三年仙台藩に招かれ、翌年、日本最初の洋式船開成丸を建造した。