身体の弱かった祖父はいつも寝たきりだったが笑顔の優しい人だった。一家の大黒柱の祖母は三男三女を育て上げ、リンゴやプラム、家畜を飼い慣らし酪農も兼ね逞しく生きていた。その逞しさはわたしの中に確実に受け継がれている。

一人だけ内地に飛び出した父は、母の故郷である栃木に教員として赴任し骨を埋めることとなる。

父が亡くなった時、北海道の兄弟姉妹たちは、父の霊に出会ったと後に聞いた。父はきっと故郷に帰りたかったのかもしれない。喜んではしゃぎながら布団をプカプカとふみ転がっている父の姿がみなの心に見えたそうだ。

だから、朝電話があった時、心していたと、口々に言う叔父叔母たちに、兄弟の固い絆を今更ながら垣間見た。わたしたちのために、いや母のために父は栃木を選んだ。帰りたかったんだなぁと、父の強がった姿しか知らないわたしは、また、3つ目の後悔をした。

わたしが産まれる時、わたしの命を助けるか母を助けるかという医師の問いに、迷うことなく「妻を」と、決断したと後に聞いたことがある。

まだ見ぬ我が子に会いたくなかったのか、父性はどこに行ったのかと疑問も生まれたが、命というものは生と死の狭間をくぐり抜けてくるのだという厳しさも同時に感じた。

へその緒が、首に巻き付いて、鉗子分娩で産まれたわたしは仮死状態の瘤(こぶ)だらけの子だった。なかなか出てこなかったので母体の安全のため、中で亡き者にし引きずり出す。

しかしその時の女医の判断と技術と決断でわたしは仮死状態ではあるが五体揃って光の中に出てきたのだ。叩かれても何をしても、わたしは肺呼吸に至らなかった。泣かなかった。

ドドメ色になっていくわたしを見た医療人はみな諦めの表情を浮かべたようだ。穏やかな湯気の上がる産室の空気が諦めの色に変わった時、わたしは包まれたタオルの中から小さなうぶ声をあげた。

産湯につかり初めて、産まれた赤子としての扱いを受けたわたしは、きっと生きようと必死だったのだろう。だって産まれたかったのだから。

母にはわたしの代わりに大きなぬいぐるみが与えられていた。わたしは死へ向かう赤ちゃんとして扱われていた。生きても脳に障害が残る。助かったとしても1年はもたない。

大方の予想に反してわたしは母乳を飲み四肢を動かし生き延びた。幸いにも、障害も残らず頭の瘤は消えなかったが、帽子をかぶると人より鉢が大きいだけで、困ることはなかった。

 

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