一九五八年七月
眠ってしまったのだろうかと哲也は思った。仰向けに寝転んでいる哲也の耳に入ってくるのは、さらさらと水の流れる音。
(身体が動かない……)
目を開けると抜けるように青くて高い空が、視野いっぱいに広がった。深夜だったはずなのに強い日差しが眩しかった。
そのまま視線を右に向けると、不格好で横に長く、さほど標高のない山の緑の稜線が広がっている。そして流れている川の色は深い深い青色だった。
欄干も何もない古びたコンクリートの橋の上に仰向けに倒れていた。哲也は目を疑った。
「ど、どこなんだ、ここは? 隅田川テラスにいたはずなのに……」
まったく理解を超えた状況だった。しばらく放心していた哲也だが、あたりをよくよく見渡すと見知った風景であることに気がついた。
「ここは、沈下橋の上じゃないか……。いったいこれはどういうことだ。とうとう俺は気が触れたのか、軽症うつの兆候もあったし……。それともあの母さんの夢の続きなのか……」
そのとき、遠くから女性の叫び声がした。
「大丈夫ですかあー」
裕子の声。こちらに向かって走ってくる。
(送ってもらうのを断ったから、追いかけてきてくれたのかな……)
山の緑を背景に現れた、ひらひらとしたその姿は蝶のようだ。真っ白いワンピース。鍔(つば)の広い麦藁帽子。
その帽子の鍔が上がり、瞳の大きい愛くるしい顔の若い女性が、心配そうに哲也を見つめる。
(裕子……じゃない。でも良い感じの人だなあ)
場違いの感想が頭をよぎる。
「大丈夫? 立てるかしら」
彼女が差し伸べた手に掴まりながら、哲也の意識は再び遠のいていった。