時は巡り、聖天様の境内に植えられた桜の花も咲き始め、春祭りも近づいたある日の事、一郎の友人の一人であるA君が、自宅を訪ねてきた。

「谷川、お前この頃元気がないけど、体の具合でも悪いのか。それに進学はどうしたんだ。農業高校に行かないのか」

詳しく事情を説明すると、A君は

「俺の家は、経済的な事情で進学はできないんだ。諦める事にしたよ」

と寂しそうに語った。一郎はそれ以前に友人からA君の家庭事情について聞かされており、承知していた。

彼が幼い頃に父親は戦死し、残った母親が町の商店で働き、一家を支えていたのである。彼は母を助け、亡き父に代わって働くのだという。

クラスの中でも成績優秀な彼が、一瞬、寂しそうな表情を見せたが、すぐに笑顔に戻って話を続けた。

「その代わり、定時制高校に通って働きながら学ぶ事にしたよ。お前も俺と一緒に熊谷高校の定時制に行こう。これからの時代を生きて行くには、学問が必要だ。まだ間に合うから願書を出して来いよ。いいか谷川、お前も必ず一緒に行こうぜ。約束だぞ!」

他にも、同じ中学校から数人の希望者もいるという。希望していた方向とは違ってしまったが、こうして一郎は友人の勧めによって、熊谷高校の定時制への進学を決意したのであった。

働きながら学ぶ

「百姓に学問など要らない」

この芳正の一言が、一郎の心を奈落の底へと突き落としてしまった。少年の頃から大自然が好きで、故郷の土地で生きる事に限りない喜びと誇りを感じていた一郎であったが、谷川家では父の一言は絶対であった。

あまりにも惨めで、涙さえ出ない。農業高校に進学して必要な農業技術を身に付け、一人の農民としてこの地で生涯を終えるという一郎の少年時代からの夢は、はかなくも霧の彼方へと消えてしまった。

こうして一郎は、友人の誘いもあって、普通高校の夜間部に籍を置く事になった。

「人手不足の我が家の働き手となって谷川の家を支えろ。それがお前の使命だ。農業技術の習得など、やる気さえあればどこにいてもできる」

父の命令に、逆らう事はできなかった。こうして近代農業への夢は消え去ってしまった。

 

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