【前回記事を読む】ススキ揺れる大利根の河原で始まる物語──熊谷の晩秋と少年の記憶
第1章 苦難の少年時代
子供達の戦後
一郎達の過ごした少年時代は、日本が第二次世界大戦の敗戦国という大きな傷跡を背負って復興への道を歩いた苦難の時代であった。そのために当時の子供達の苦労は、想像を超えていた。
すべての物資は不足して食べる物さえ事欠く時代、子供達は少しでも家計の助けになればと、どんな事でも進んで手助けを買って出た。
当時、今日のように公園や道路脇などで遊んでいるような子は一人も見当たらず、商人の家の子は家業の手伝い、勤め人の家の子は近くの工場や商店などにお願いして使い走りや荷物の運搬などを手伝い、女の子は掃除洗濯子守りなどをして、わずかなこづかい銭をもらい、それを家人に渡して家計の足しにしていたのである。
当時はすべての物が不足して難渋を極めたが、特に食べる物には苦労した。一郎は家が農家であったおかげで三度の食事も事欠かずに済んだが、今時の子供のようにお菓子などというものは見た事もなかった。
口にできたのはジャガイモやサツマイモの蒸かしたものが主で、年に数回、神社の祭礼などで祖母や母が小麦粉で作ってくれたまんじゅうは何よりのご馳走であった。
また、農繁期の節目にある「野上がり」と称した農民達の休日に作るおはぎは、家じゅうの子供達の奪い合いまで起こる始末で、翌日には食べ過ぎてお腹を壊し、学校を休んで父親にこっぴどく叱られたのも一度や二度ではなかった。
一郎は親もあきれるほどの大食漢で、そのためか体格は同年代の子供の中でも大きく、学校ではいつも最後尾に位置していた。両親はそれを見て、いかなる農作業の使役にも充分耐えられると思ったのか、学校から帰るのを待って、ありとあらゆる農作業に従事させた。
食べる物も着る物も、すべて欠乏していた時代。育ちざかりの子供達にとって遊ぶ事よりも食べ物を得る事が優先で、それゆえに子供達の遊びは食べ物を探す事であった。近くを流れる用水堀などは格好の遊び場で、その中でザリガニやタニシ、アカガエルやウシガエルを捕る。秋には稲田の畔道でバッタやイナゴを捕まえる。
その他、家の庭に植えられた梅や杏子(あんず)、ナシやモモ、カキ、ブドウ、口に入る物は何でもござれと手当たり次第に口に運んだ。
学校が終わると、日が暮れるまで両親の手伝い。家に帰ると疲労困憊で勉強どころではない。夕飯を済ませると同時に布団に入るのさえもどかしく、後は泥のように眠るだけ。子供達はこうした環境の中で元気に成長して行った。
父親の芳正からは、「お前は谷川家の後を継ぐ身。一通りの農作業は身に付けておけ」と、事あるたびに口癖のように言い聞かされて育った。そのために、稲刈り、田植え、麦の刈り取り、田の草取り、ネギの土寄せなど、どんな農作業でもできない事はないと言えるほど鍛えられた。
しかし、いくら鍛えられたとはいえ、15〜16歳の少年の身。関東平野に吹きすさぶ空っ風の中で行う農作業は、想像を絶する厳しいものであった。