エステ氏は慎重にカッターを入れ、丁寧に裏蓋を外し、絵を取り出すと宗像に手渡した。裏返して見たのだが、サインもエディション・ナンバーも記されておらず、ただの真っ白い紙ではないか?

「サインもエディション・ナンバーもありませんよ!」

宗像は驚いて詰問するように咎めると、エステ氏は平然とこう言い放った。

「この値段では、サインまでは無理でございます……」

呆気にとられて暫くは開いた口がふさがらなかった。絵をエステ氏に突き返して店を出ても良かったのである。もしもそうであったなら、この一連の出来事は不思議な物語にはならず、いつもの撮影旅行での、ほんのちょっと奇妙な一コマとして終わっていたことだろう。

宗像は騙されたことに対する怒りを鎮めながら、もう一度絵を取り上げ、じっと見ていると、午後にテート・モダン美術館で心地に会う約束をしていることを思い出した。

心地顕は宗像の大学時代の同級生である。宗像は写真、心地は美術史と、履修コースは互いに違っていたのだが、郷里が偶然近いということに併せ、映画という共通の趣味を持っていた。その後、なんとなく気が合う以上の親しい仲になり、現在でも頻繁に連絡を取り合っている、まさに親友同士という間柄だった。そんな関係だから心地が東京に帰って来た時は、会って一杯飲むことにもなった。

宗像はこの絵に出会った偶然性について考えてみた。まず第一印象だがミステリアスな雰囲気を秘めている不思議な絵だ。故意か偶然かは分からないがエステ氏の嘘には腹が立つ。しかし興味をそそられる絵という事実に変わりはなかった。結局、これも何かの縁ではないかと考えることにしたのである。

それに、もう一つ重要な理由があった。宗像はこの美しい横顔の女に惹かれてしまったのだった。この絵を日本に持ち帰りたい強い気持ちが沸き起こったのだった。宗像には若い頃、恋人に関する不幸な出来事があった。

結婚するはずだった婚約者を突然の病気が襲い、帰らぬ人となった。それ以来、宗像の前に現れた女性も何人かはいたのだが、気持ちの切り替えもままならず、気がつくと四十六歳になっていた。