【前回の記事を読む】「これはマニュアルに書いてない…」もし、彼が気づかなければ——社内表彰の対象者は黒沼 良治。
おごそかな挨拶
洗浄機の拡大写真にナンバリングし順番に並べていく。現場事務所で新島が新しいマニュアル書作りに格闘していると渡辺がやって来た。
「いやー、参りました……フフフ」嬉しそうだ。
「何かありました?」
「近藤さんにも声を掛けたので……近藤さんが揃ったら話します」
「良い話?」
「まあ、そうですね」
渡辺がニヤニヤしながら。
「お茶でも淹れましょうか?」
「え? ここでお茶は無理でしょう」
「飲めますよー」
おどけた渡辺の視線の先に目をやると、お茶を淹れるためのセットなのだろう、給湯器の傍らに布巾を掛けられたものが置かれていた。マニュアル書作りに夢中でまったく気づかなかった。
「へー、こんなのあったのですね」
「新島さん用の湯飲みあるみたいですよ。でも俺の湯飲みはない」
「差別ですね。やることに心がない。総務でしょ?」
「フフフ、心はあるんじゃないですか」
「でも差別は良くないですよ」
「フフフ、差別でもないし、自分の分は自分で用意しますから」
軽口をたたき合っていると渡辺は洗浄機の写真を手に取り、
「前の係長、坂下っていうんです」と話し出した。
「名前は聞いていますよ」
「坂下さんは、身体壊して辞めたんです……。今入っている病院って聞きました?」
「さあ」
「春川病院、精神の病院です」
「えっ?」
新島の頭の中で一つの線がつながった。渡辺は渡辺で思うところがあるのだろう、ジッと写真を見ていたが、近藤の到着を待ちきれずに渡辺は話し始める。
「黒沼、残業するって自分から言ってきましたよ」
「ほー、すごいね」
「自分からですよ、参りました」
参りましたというその表情はまったく参っていない。嬉しくて参ったという表情だ。口許が緩んでいる。昼休みに黒沼に頼んだこと、「残業する」と渡辺に直接伝えてほしい、それを黒沼は実行してくれたのだ。
──よく高いハードルを越えてくれましたね──
新島の頭の中にはぶっきらぼうな黒沼の表情が浮かんでくる。