おごそかな挨拶
何か良いことが起こる予感、それも恥ずかしながらロマンスの予感。年甲斐もなく新島の心は浮ついている。転勤が決まって初出勤の朝、新島は幸せな夢で目覚め心が浮ついている。
その夢。バス停の名前は「ふりだし」。聞いたことのない名前だ。淋しいバス停。バスを待つ私は心細い気持ちになっている。バスの行き先がわからないからだ。行き先のわからないバスに乗るべきか? 迷っている。
迷いつつ、いかにもローカルな昔バスに乗り込んだ。ガランとした車内にはすでに一人の女性客。私は何でもないような顔をして、女性から少し離れて座った。何でもないように振舞う私の心は大いにざわついている。心が横目を使って女性を探ろうとしている。
バスに乗り込むときから感じていた特別感、あなたは誰? なじみのある意識のようだが思念が読み取れない。
──あなたは?──
感覚を研ぎ澄ませてみる。
──私です──
私の心のアンテナが女性からの意識をキャッチした。
──あなたでしたか──
私が過去に会った人、私が未来に出会う人。
──そうでしたか、そうでしたか──
心の距離が一気に縮まって幸せな気持ちになった。
──このバスはどこに?──
聞いてみた。彼女は少し考えてからパラフィン紙のねじり包装のお菓子を私の掌にそっと置き、私を見た。
──これを開けるの?──
ねじり包装を引っ張るとお菓子はクルクルと回り、出てきたのはブルーのゼリー。
──きれいだね──
目元で透かして見た。
──聡明なブルーだね、美しい──
──はい──
見つめ合った、改めて見ると女性の表情は静かでたとえようもなく美しい。手をつなごう……。
私が手を差し出す。彼女も手を差し出す。手をつなごうとするのだがあと少しで届かない。あと少し……あと少し……。
目覚めてからも余韻に浸りたい幸せな夢だった。今まで新島の人生に浮いた話など何一つなかった。恋は苦手な分野、恋愛は自分以外の誰かがすること、そのように思っていた。ただし、今朝の新島は違う。若い女の子のようにロマンティックな気分になっている。転勤が決まり、初出勤の朝に見た心騒ぐ夢。新しい職場で誰かが待っている気がしてしまう。新島の心は浮ついている。
東京の西の外れ、緑濃い山懐にその工場はある。光デバイス東京工場。仰々しい名前だが有り体に言えば、溶かしたガラスを引っ張って、束ねる工場だ。
早朝の工場に従業員の姿はまだない。薄暗い工場内を一歩一歩、ビクビクしながら歩くのは新島しげる。研究部門に在籍していたが、今日から製造の現場に係長として赴任してきた。気弱で凡庸、人の良さだけが取り柄の独身三十二歳。心配性が過ぎて初出勤の今日、大幅に早い時間に出社してしまった。
いつもの新島なら慎重で軽はずみな行動は取れないのだが、今日の新島は心が浮ついている。時間を持て余し、間が持たずに担当するはずの工場現場に足を踏み入れた。照明のスイッチ場所がわからず、暗がりの中を歩き回る。歩きながら我が身の軽率を反省し始めた。
──まずいな……何をやっているのだ……他人の家に無断で忍び込んでいる気分だ──