引き返そうと思ったそのとき、暗がりで何かが動いた。タンクから伸びる配管の奥。
何だ? 小動物か? 薄気味悪い恐怖が襲ってくる。首だけ伸ばして辺りを窺うが、動いたものの正体がわからない。さらに一歩踏み込んだとき、それが人間だとわかった。
人がしゃがんだままギロリとこちらを見ている。突然の事態に新島は凍りついた。状況がわからぬまま目が合う格好になった。
新島もそうだが、それ以上にギロリとした目のほうも警戒し怯えている。相手が怯えていることがわかってくると、どうしたことかこちらは気持ちが楽になってくる。
新島が軽く頭を下げると安心したのか、その人は無感情に目をそらしバルブの調整を始めた。この人は……? 仕事の準備? 恐怖は薄らいだが疑問は残る。何でこの人は暗がりで一人作業をしていたのだろう。
「どうも」
新島は場違いな言葉を掛けたが男からの返事はなかった。
梅雨の晴れ間。工場の中庭にゾロゾロと人が集まってきた。光学素子製造の初期工程を担当するファイバー一係の従業員二十九名だ。第一工場の長、深海部長は従業員たちが落ち着くのを待っている。
「いいかな……」
深海部長が中央に登壇し、促されて新島も登壇するとざわつきは止み、好奇の目が壇上に注がれた。
「おはようございます」
深海部長は十分にタメを作り、余裕たっぷりに話し始める。
「火にかけたヤカンの水は沸騰するとボコボコと底から何かが出てきますネ。その正体は皆さんご存知の空気の泡です。ではその空気はどこから来たのでしょうか? そう、最初から空気は水の中に隠れていました。水の中には思いもかけない程の、大量の空気が隠れていました」
意表を突く話題で聞く者の心を掴む。深海部長は人前で話すことに慣れているのだろう。
──何の話?──
同じひな壇に立つ新島さえも聞き入ってしまう。
「同じようにガラスの中にも空気やガスが隠れています。私たちにとって厄介者の泡です。
ミクロン単位の泡の子どもも隠れています、窒素であったり炭酸ガスであったりね」
そういうことか! 深海部長の話には新島に対する気遣いが含まれていた。三年ほど前、新島の書いたガラス中における泡分析報告書を部長は読んでいた。
社内ではほとんど評価されなかった報告書だったが、部長は読んでくれていたのだ。それをさり気なく伝えてくれた。新しい群れの中に入れてもらえた気がした。
次回更新は3月18日(水)、20時の予定です。
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