「ねえ渡辺さん、黒沼さんが残業するなら私が送っていきますよ、家も知っておきたいから」

送っていく役は誰にも譲れない。新島には黒沼糸さんという女性が育った家に個人的に興味があるのだ。

「それ、お願いしていいですか? 俺どうも一対一が苦手で……」

渡辺が頭に手をやって言いわけしていると近藤がやって来た。

「話って何?」

渡辺はもったいつけている。

「黒沼のことです」

「何かやらかした?」

「フフ、残業するって自分から言ってきましたよ」

「えー?」

渡辺は得意気に、

「自分からですよ、フフ、自分から言ってきました」

「意味わかんねー、何で?」

「だからー、黒沼は自分の意志で残業するって決めたんです。職場のこと考えたんですよ」

「マジ?」

目を丸くする近藤に、渡辺はさらに畳みかける。

「あの話、俺のほうからしてもいいですか?」

新島に了解を取って、渡辺は洗浄機で起っていたことを身振り手振りを交えて話し始めた。

「……最初に原点を合わせないとダメだったんです。ズレが大きくなってガッツン……で今、新島さんがマニュアル書を書き替えているってわけ」

近藤はにわかに信じられないのだろう。

「マジ? じゃあ、坂下さんが言っていた妙な仕掛けは?」

「仕掛けなんて思い違いもいいとこ……妄想」

渡辺は大切な切り札を出すようにタメを作ってから、

「坂下さんは体調を壊して会社を辞めた……。で、どこに入院しているかっていうと、春川病院」

「あそこ?」

「俺も昨日知ったのだけれど被害妄想だって。家族の人も困っていたらしい」

近藤は何か言いたそうだが言葉が出てこない、何度も何度も自分に言い聞かせるように頷いてから、

「新島さん」

と突然話を振ってきた。

「何でしょうか?」

「この話、千葉さんにも聞いてもらいましょう。俺呼んできます」

「検査、今日は二人休んで現場に入っているから抜けられるかナー?」

「一応声は掛けますよ。それから仕事中だけど、コーヒーで乾杯しませんか? ダメですか? アウト?」

「乾杯しましょう」

新島の返事を待たずに渡辺は立ち上がり、小銭を探している。

「おごらせてください」そのとき新島の内なる耳に風の音が確かに聞こえた。風は職場に澱んでいた空気を簡単に吹き払ってしまった。風の種。風が生まれるときに最初に動き出すファーストペンギンのような空気。その風の発生を促したものは無口な男のちょっとした勇気だった。

次回更新は3月27日(金)、20時の予定です。

 

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