14 光孝天皇(八三〇~八八七)

君がせぬわが手枕は草なれや涙の露の夜な夜なぞおく

(そなたが手枕をしてくれない私の袖は草なのだろうか。涙の露が夜ごと置くところをみると)

「手枕」は男女が共寝するとき、一方が他方の腕を枕にすることである。いつもならあなたの手枕で寝るのに、独り寝が続くので寂しさに堪えきれず涙が流れる。草が露を置くように、私の袖も濡れてしまう、という意味である。

長い間里に下って参上しない更衣(皇后よりかなり低い身分の女房)に対し、軽い戯れの気持ちもこめて贈った歌である。天皇がこれほど艶のある歌を詠むのも珍しいが、二十九人も子どもがいたというから、多くの更衣を抱えた色好みの帝であったのだろう。女の返歌はいささか凡庸であった。

露ばかりおくらむ袖はたのまれず涙の川の瀧つ瀬なれば

読み人知らず

(露の涙などでは愛の証としては頼みにもなりません。私の方は涙の川が滝のように流れているのですから)

光孝天皇は、仁明天皇の第三皇子である。若い頃から勉学に励み、諸芸に優れた文化人で、容姿は閑雅であったという。特に和琴に秀で、相撲を奨励した。性格は温厚で誠実、人望があった。

時の権力者藤原基経によって陽成天皇が廃位された後、多くの皇位継承者の中から基経に推され践祚(せんそ)した。このときすでに五十五歳であった。まさにサプライズ人事というべきもので、本人としても青天の霹靂(へきれき)であっただろう。しかし、光孝天皇は即位してわずか三年の後五十八歳で崩御している。

『大鏡』に光孝天皇の人柄を示す逸話が残されている。親王時代、ある大きな宴席で給仕役がちょっとした粗相をしたときに親王がふっと灯を吹き消して、給仕役のミスを目立たないように取りはからってやった。まだ若かった基経はこれを目撃して、親王の慈悲の心に感じ入り、後の天皇推挙に繋がったということだ。

『徒然草』の第一七六段には、即位後も不遇だった頃を忘れないで、御自らたびたび自炊をしていたことが記されている。そのためその場所は、薪の煤で戸が黒くなってしまい「黒戸」と呼ばれていたという。

斯くの如く、庶民的、色好み、予期せぬ幸運な即位というように、珍しいタイプの帝であったようだ。人間的な優しさは小倉百人一首の歌に表出している。

光孝天皇は幼少時、遍昭の母を乳母として大和石上で育った関係で、遍昭とは親交が深く、和歌は遍昭から手ほどきをうけたと考えられている。勅撰入集は十四首ある。

逢はずしてふる頃ほひのあまたあれば遥けき空にながめをぞする

(恋しい人に逢わないで雨の降り続く日々が多いので、遥かな空を見つめてもの思いに沈んでばかりいるよ)

小倉百人一首

君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ

(あなたのために春の野に出て若菜を摘んでいると、私の衣の袖に雪が降りしきっていました)

 

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