【前回記事を読む】世界三大美人・小野小町が詠んだ“夢の恋歌”――今も胸をしめつける切なさ

11 小野篁(たかむら)(八〇二~八五二)

思いきや鄙(ひな)のわかれにおとろへて海人(あま)の縄たきいさりせむとは

(思っただろうか。田舎の地に遠く隔てられ、心が弱り果て、海人の縄を手繰って漁をしようとは)

「おとろえて」は意気消沈することだが、落ちぶれるという意味もある。「縄たき」は漁師が漁をするときに縄(網縄・釣縄)を手繰ることである。

小野篁は、最初の遣隋使として有名な小野妹子の五代目の子孫で、篁の子孫が小野小町である。

小町は篁の孫か娘という説があり、二〇二三年に出版された高樹のぶ子の小説『小説小野小町 百夜』では娘という設定になっている。篁は幼少の頃は弓馬に専心し学問嫌いであったが、成人してから勉学に励み、平安時代初期の屈指の漢学者となった。

性格は極めて独特だ。身長一八六センチの大男で性格は直情径行、曲がったことは大嫌いという気骨があり、「野狂」というあだ名があった。

遣唐使に二度選ばれたがいずれも航海に失敗し、仁明天皇のとき三度目の遣唐副使に任じられた。このとき遣唐大使である藤原常嗣の船が破損していたので、常嗣は篁が乗る船と取り換えることを願い出た。朝廷はこれを許可したので、篁は怒って乗船を断固拒否し、風刺する詩を作って抗議した。筋が通らないことは許せない性分なのだ。

これが咎められ隠岐に流罪となった。隠岐は島根半島の北にある島で、本州から五十キロメートルも離れている寂しい漁村である。この約四百年後に後鳥羽院も隠岐に流罪となるので、後鳥羽院の大先輩ということになる。篁は、仁明天皇にその才能を惜しまれ二年後に召喚され、参議を経て従三位となっている。