掲出歌は隠岐に流されたときに詠ったものである。実際に篁自身が漁師と一緒に魚を捕ったわけではない。それは言葉のうえだけで、流人生活の悲劇的詩情を誇張しただけのものであり、不思議と悲壮感は伝わってこない。

「思いきや」という叩きつけるような一句切れが象徴するように、むしろ堂々とわが身の不幸を嘆く豪胆さが感じられる。なお、「思いきや」の詞はこの後多くの歌人に取り入れられ、藤原俊成などは私が知る限り三首に使っている。たとえば、

思いきや別れし秋にめぐりあひてまたもこの世の月を見むとは 藤原俊成

小倉百人一首

わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人のつり船

(はるか大海原を多くの島々を目指して漕ぎ出して行ったよと、都にいる親しい人たちに告げてくれ、漁師の釣船よ)

これも隠岐に流されたときの歌である。「海人」は「天」すなわち天皇を、「つり船」は遣唐使船を暗示していることは容易に分かり、「遣唐使を廃止せよ」という意味が込められている。篁のこれらの歌は、大変な影響力があったのである。

というのは、遣唐使は一~十数年のサイクルで派遣され続けていたのが、篁が乗船拒否した第十九回遣唐使のあとは五十六年間も遣唐使の派遣が停止された。そしてついに菅原道真の決断により遣唐使は廃止されたが、そのきっかけになったのは篁の歌であったのだ。

遣唐使派遣は、遭難が多く危険が高い割に、唐から学ぶべきものが少なく、その存在意義が疑問視されていた。歌が歴史を動かす原動力になったのである。

篁はこういう一風変わった性格なので逸話が多く、地獄の冥官だったというのもその一つだ。

京都の珍皇寺(ちんのうじ)から冥界に入って、閻魔大王のもとで罪人を裁き、嵯峨野の生の六道という地から現世へ還ってきたという。不思議な魅力を放つ人物である。

篁の好きな歌をもう一つ挙げると、

花の色は雪にまじりて見えずともかをだににほへ人のしるべく

(白梅よ、花の色は降りしきる雪に紛れて見えなくても、せめて香りだけでも匂わせよ、人がそれと気づけるように)

篁の子孫である小町は、「花の色は」で始まるこの歌を意識して、「花の色はうつりにけりな」と詠ったことは確かである。篁の「花」は梅だったが、小町の「花」は桜であった。

 

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