【前回記事を読む】深草少将と呼ばれ、小野小町とロマンスを楽しむほどハンサムだった遍昭――出家後も洒脱明朗で飄逸(ひょういつ)な歌を詠んだ
13 源融(みなもとのとおる)(八二二~八九五)
照る月をまさきの綱によりかけてあかず別るる人をつながむ
(輝く月をまさ木の葛を綱に縒って繋ぎ止めよう、心残りのまま別れてゆく人も)
「まさ木」は杣木を運ぶのに使う葛のこと。
詞書によると、親友の在原行平[15番]が月の明るい夜に訪れて来てお酒を飲んで歓談した。さあ帰ろうとしたとき、融が名残を惜しんで作った歌である。山の端に隠れてしまいそうな美しい月を止めて、いつまでも夜が明けないようにしたいという心である。繋ぎ止めておきたいのは、傾く月だけでなく、語り飽きない友人の両方なのだ。
行平の返しの歌が
かぎりなき思ひの綱のなくばこそまさ木のかづら縒(よ)りも悩まめ
在原行平
(限りなく長いまさ木の葛のように、あなたの思いも限りなくあるでしょうか。もしないのであれば綱に縒るのは大変でしょうね)
と、融の大げさな歌をからかっている。
源融は嵯峨天皇の十二番目の皇子である。子沢山の嵯峨天皇は、これをみな親王にすると国家財政がもたないという理由から、男女八人に「源朝臣」の姓を賜り臣下とした。いわゆる嵯峨源氏である。
この中で特に頭角を現したのが融である。陸奥出羽の按察使(あぜち)となり莫大な富を築いた。その財力は国家予算の数年分もあったという説もある。その後参議を経て左大臣まで昇進した。融は富と権勢を背景に豪奢な逸楽の生活を送ったのである。
賀茂川のほとりに四四〇メートル四方の河原院と呼ばれる豪邸を造り、風光明媚な奥州塩竃の風景をそっくり模して、藻塩の煙の立つ様子を鑑賞した。池を満たす潮は、難波尼崎の浦から毎日五キロリットルもの海水を役夫数百人に運ばせたという。
この河原院では毎晩歌会や管弦などの催し物が開かれ、在原業平などの風流人たちが集ったという。河原院は融の没後荒れ果て、融の曾孫の所有となったとき、荒廃した栄華の跡地に風情を感じて歌人たちが集まり、その中の一人恵慶[44番]が
八重むぐらしげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり
恵慶
と詠んで、小倉百人一首に選ばれた。