当時、仙台藩にあって但木を登用したことは正しかったと言いうる。

この動乱時代の仙台藩の舵取りは藩主慶邦と奉行職首座の但木土佐の手に委ねられた。

藩主慶邦が信頼していた但木自身の働きぶりもさることながら、これまでの但木家の領民支配が評価されたのではないか。

また、但木土佐の父直行は、涌谷伊達村常の次男であるが、祖父村倫は、六代藩主宗村の第十子。慶邦の義兄斉邦は、五代藩主吉村の系であるから門閥の中でも遠くない血縁・姻戚関係にもなるので信頼できる関係にあった。

但木は、重厚にして果断、時務に練達、思慮深く長者の風ありと評されていた。

大槻盤渓は、但木が大藩の家老にふさわしいことを認め、但木より十五歳ほど年長であったが、腹蔵なく話せる間柄であった。

但木は、まず緊縮財政を展開するとともに殖産興業に努めた。その中で陶器の製造、製塩の改良、柴海苔の栽培方法を取り入れ、製茶の奨励などを行った。

お茶は古くから吉岡付近で生産されていたが、但木土佐が、大年寺山に茶畑を開拓した。ところが一人の藩士から藩祖政宗公が築造した城郭を破壊する行為であるとの抗議があった。

また兵制改革としてゲベール銃を採用し、藩で製造もしたが、先込銃で有効射程距離が一〇〇メートル程度であるので、より射程距離の長いミニエー銃を購入した。その頃、後装式のスナイドル銃が輸入されていたが、仙台藩では軍備費が少なく購入できなかった。

 

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