【前回の記事を読む】凶作と飢饉で苦しむ仙台藩に黒船来航――軍制改革と財政政策はどう進められたのか

第一章 仙台藩の内情

四 藩政

この政策は、洋式兵備の促進を望む藩主や一部の藩士に歓迎されたものの、財政の原則である「出を制し入りを計る」を無視するものであり、放漫経済に陥った。

藩主慶邦は、芝多の軍備の促進に功労を賞し、「三十貫」を加増した。一方では、領民の生活難が激化した。

しかし、芝多は、自宅に数寄をこらした茶室を新築する、或いは料亭で田舎大尽ぶりの遊興をしたことの個人生活が批判され、結局、安政五年九月に職を解かれた。

芝多の積極政策の是非に関連し、藩論が開国派と攘夷派に分かれ党派争いが生じた。

なお、芝多は、慶応元年、但木土佐暗殺計画に加担したとし水沢に幽閉され、絶食し、同二年一月、四十五歳で死亡した。

芝多の財政政策は、天明飢饉の頃の出入司安倍清右衛門による米の買占め、銀札発行による不況を招いた前例を教訓にしなかったと考えられる。