第二章 藩主慶邦の苦悩

一 但木土佐の登場

仙台藩の財政が行き詰まっていた。藩主慶邦は、安政五年(一八五八)九月二十九日、但木土佐に奉行職を命じた。

但木土佐は、文政元年(一八一八)五月二十日、仙台で出生した。

父直行(弘行)は、湧谷邑主伊達村常の次男。但木家に婿入、家格は宿老吉岡邑主禄高千五百石、天保一一年(一八四〇)家督、宿老。

吉岡は、奥州街道と羽後街道との交通の要所に所在する宿駅。伝馬を負担し、その反対給付として市の開催が認められていた。しかし、負担が重くなり、それとともに町場の衰退をきたしていたので、天明七年(一七八七)、邑主但木下野が、奉行所に鎮守と八幡宮における市の開催日を年に二回、七日間を求める書を提出した。

藩当局は、一年に二度の神事に七日間の祭市を認めた前例がないことを理由に容易に認めなかったが、出入司らが藩内の寺社を調査したところ岩沼の竹駒明神などで神事に七日間の祭市を開催していることが判明したので、町役人のもとで運営することで互市開催願いが許可された。

この願書が藩政の責任者からの提出であることばかりではなく、天明の飢饉で荒廃した町場を再建すること、また商品を促進させ市の拡大を図るものであることから認められたのである。

次に有力町人九人が合力し、八年間に亘り資金として千両を蓄え、これを藩蔵に上納、年八厘の利子の支払いを求め、明和九年から窮民に配布する救済事業を始めた。これが約三十年間続けられたが、藩の方法に変化があったため終了した。

その後、邑主山城弘行が、家老や町役人らに再検討させたところ天保一〇年(一八三九)に二百五十両の調達を得たので藩に出願した。

これに藩主斉邦が、二百五十両を加え五百両として基金にし、さらに藩において五年間でこれを一千両にした。そして六年目の弘化二年から一割の利子が支払われることになり救済事業が再興された。

この救済事業が「国恩記」として記録されている。

但木土佐は、嘉永五年(一八五二)七月十一日に奉行職、翌六年九月に江戸詰、同年六月ペリーが浦賀に渡航。九月三日、江戸詰家老として大槻盤渓を浦賀に出張、調査させた。

安政元年(一八五四)三月に帰国、閏七月病気により退職。同五年(一八五八)九月、芝多民部の奉行解職に伴い、再び奉行職に。江戸詰に就任したものの同六年六月、病気により退職。

その頃、栗原郡川口邑主遠藤文七郎を中心とした尊王攘夷党が、藩内で活動を始めていた。遠藤は、資性厳粛、権力におもねることなく所信を貫く烈士の風ありと評されており、その上漢籍に通じ国典にも詳しい。

これが芝多党に与し、洋式兵備の促進を図る一派になった。万延元年(一八六〇)四月十六日、藩主慶邦が、但木に三度の執政を懇請したことから固辞できず、首班奉行職に就いた。