「いえ、ロンドンでは街歩き以外には、特別にどうということでも……。今回の目的はポルトガルなのです」
ポルトガルと聞いたエステ氏の顔色が少し変わった。同時に、灰色に彩られた二つの瞳の奥が、ほんの一瞬だったが、怪しく光ったことに宗像は気がつかなかった。
「ポルトガルですか? あなた、ポルトガルに行くのですか? ええ、あそこはなかなか面白いところですよ。特にロンドンとポルトとは歴史的にも深い関係がありましてね、今でも大変仲が良い。まあ、大昔はスペインがある手前、軍事的、政治的な理由で結びつきが強かったのですがね」
「そうですか。今でもロンドンとポルトとは?」
「ポート・ワインをご存じでしょう? あの甘くてこくのあるデザート・ワインですよ。実は、このワインの素晴らしさを発見してヨーロッパに持ち帰り、広く世界に紹介したのがロンドン商人というわけでしてね。確か今でも生産量のかなりの部分を英国人が買い付けているのではなかったかな。まあ、これはほんの一例ですけど。そう……そうですか? これからポルトガルにね?」
「ところでエステさん、この絵ですが、ピエトロ・フェラーラとはどんな画家なのですか?」
宗像がこう尋ねると、エステ氏は良くぞ聞いてくれたというような顔に変わり、何度も頭を縦に振りながら説明を始めた。
「彼こそはまさしく現代イタリアが生んだ天才画家ですぞ。わずか二十八点の油絵と十数点の素描画を残して、惜しくも若くして死んでしまった不世出の大画家。このプリントはその素描画の一枚を使ったというわけでしてね。ええ、全てのフェラーラの絵は、私どものところで独占して取り扱っておりましてね」
イタリア人らしい発音の問題もあったのだが、澱みなく喋るエステ氏の説明を、宗像は半分無視しながら絵を見ていた。
つぶさに観察すると、それは非常に特殊なテクニックを駆使して描かれた絵であることが分かった。女の唇は今にも微笑に変わりそうな様子でリアルに描かれている。それもどちらかと言えば誘い込むような官能的な微笑みである。
ブロンドの髪は前で二つに分けられ、ゆったりと後ろで束ねられている。横顔を描いた絵なのだが、その表情には、なんとなく謎めいた雰囲気を漂わせていた。
興味をそそる絵だ。具象を基本としているが、抽象的でコンセプチュアルな表現もコラージュ風に巧みにミックスされている。だが、女の横顔が描かれている背景に、薄っすら見える模様は何を表しているのだろうか?
重ね描きされた写実的な青いバラと古典的な建築の柱のようなものは……いったい? 絵はコラージュ風に重ねて描かれた複層画のようにも見えていた。