【前回の記事を読む】地に足をつけたビジネス「小売業」を就職や転職の選択肢に! 自由な発想で店舗を運営することのやりがいと喜び
2.生い立ち
彼が生まれた1959年は、伊勢湾台風が全国的に大きな被害をもたらした年だった。
彼が生まれ育ったのは、どこにでもある地方都市で、人口は10万人台の温暖な気候の町であった。
市内には一級河川が悠々と流れており、古くから市民の生活を支えていた。彼が生まれたのは河口近くの地域で、実家は河口から100m弱の距離にあり、幼少の頃は潮風と大自然の中で伸び伸びと育った。
町の産業は大きな製鉄所が牽引しており、昭和40年代に操業開始して大きく発展した。昭和30年代に10万人台の人口が昭和50年代には30万人台に急速に増加しており、市を挙げて製鉄所の誘致と産業の発展を推進して、当時としては画期的な発展を遂げた。
昭和50年代に竣工した河口堰(かこうぜき)は、治水と工業用水確保を目的に建設された。河口堰の近くには広大な運動公園が造られ、各種のスポーツ大会や高校野球の地区予選、プロ野球のウエスタンリーグ公式戦などが毎年行われている。
しかし、彼が小学生の頃に工事が始まった河口堰は、この地域の生態系に大きな影響を与えた。夏休みには川であさりやハマグリが簡単に採れて、近所の生産者に買い取ってもらっていたのだが、河口堰の完成後は全く環境が変わり、豊かな自然に触れる機会が減ってしまった。
長じてから彼は、あの奇麗な川の流れと掌で感じたハマグリの感触を懐かしく思いだすことがある。
また、この河口流域は養殖海苔の生産地で、当時贈答品として珍重された乾燥海苔が高値で取り引きされていた。しかし、アサリやハマグリと同様に海苔の生育にも大きな影響が出始め、数年後、この地域での海苔の養殖事業は終わることになった。
言い伝えによれば、彼の家の先祖は武士で、大坂夏の陣で豊臣方に加勢して敗れた後、紀州から四国に渡りその後、この地に至った。そして、この地域の景勝を愛し、居を定め、農を業として永住したと伝えられている。
彼の祖父も父も農業と漁業を営んでいた。漁業は海苔の養殖業を行っており、当時の技術革新と両親の熱心な取り組みによって生活は安定していた。彼には2つ上の姉がいたが、2人とも農業とは縁はなく、姉は教員になり、退職後の現在は地元で民生委員をしている。
この地域の農地は農業生産基盤が整備され、砂地で非常に水捌(は)けが良く、市内最大の野菜の産地で日本でも有名なエリアだそうだ。当時は食糧不足で、農産物が高値で取り引きされていた時期もあり潤っていたが、現在では後継者不足の流れの中で、かつてのような生命力に満ちた風景は姿を消しつつある。
両親は努力家で、朝から夜遅くまで毎日農作業や海苔の養殖の仕事をしており、苦労して2人の子供を育てた。
当時から家族だけで長時間労働を行っており、生産性の低さを労働時間の長さでカバーする両親の働き方を見て彼は育った。両親にとても感謝し尊敬していたが、この仕事を自分の生業にしようと思うことはなかった。彼には、両親のような努力を継続する自信がなかったのである。