四 受け止められない事実
その日は珍しく残業を向井から頼まれた。PC作業だったが難なくこなし、時計はすでに夜九時を指すところで、携帯に目をやると、照史も残業をしている様だった。
「同棲していれば、いつでも一緒に食事をとれるのに」。私はそんな事を止め処なく思いながら、本当はあの夢を気にしていた。
資料をまとめて院長室に行くと、労いの言葉を受け向井がPC作業は苦手だ、と言いながら私を見上げた。まとめた資料を手渡し、帰ろうとすると呼び止められ、夕食をご馳走するからと言う。
私はきっと怪訝そうな顔をしていただろう。しかしあまり無下にもできず承諾した。タクシーに乗り込むと、車は静かに動き出した。
向井は車内でも一人話し続け、私に苗字で呼びにくいから、ちゃん付けで呼んでいいかと尋ねた。それで仕方なく「クリニックでは苗字で呼んで下さるなら」「なんか距離を感じるな」とケラケラ笑いながら私の顔を覗き見た。揶揄われると子供扱いされて不愉快だった。
「堀田さんが詮索してくるし困ります」
「堀田さんはおばちゃんだよね」
それにすかさず悪口ですかと突っ込むと、そんなつもりではないと血相を変えて訂正し、やりにくそうに髪の毛を掻きむしった。その時は軽い冗談のつもりで、場の空気を変えたかったようだ。
私はさらに、先生はご結婚されないのかと畳み掛けたが、自分でもなぜその様な失礼を言い放ったのか自分でもわからない。極度の緊張のせいにしたが、本当にその頃は男性が苦手で、ある意味憧れていた上司を前に緊張していた。
そんなことも向井は余裕で笑い飛ばし、プライベートな難題を聞いてくるのが面白いと言って「相手がいないから」と率直に答えた。私は一緒にタクシーなんか、乗るのではなかったと、猛反省し下を向いた。車は流れるように環七通りに入っている。
「不躾な質問をして申し訳ないです」とただひたすら謝り、ただでさえ先生はお忙しいからと伝えたがフォローになっていない。コミュニケーションが不得意だからつい余計なことも口にしてしまう。
彼は私に、お腹が空いているからイライラしているのかと返し、忙しいのは言い訳だ、と自分に言うように呟いて車窓を遠めに眺めた。何か思うところがある様だった。