【前回の記事を読む】真魚(後の空海)は大学を辞めた。彼は真理にたどり着くため、真言を100万回唱えることに。適した場所として選んだのは…
第二章 天部の将軍、帝釈天と合心した空海の歩み
修行は夜を徹して行われた。目をつむっていても、瞼の裏には光明が瞬いている。真魚は自分が真言を唱えているにもかかわらず、その声がどこか遠くで響いているように感じていた。あらゆる想念から解放され、自身が消えてなくなりそうだった。
「ノウボウ、アカシャ、キャラバヤ、オン、アリキャ、マリボリソワカ」ついに真魚は百万回目の真言を唱え終えた。
そのときだった。谷間より轟音がとどろき、空から降ってきた光玉(こうぎょく)が胸元に飛び込んできた。よくよく見ると、その光玉の中には、甲冑(かっちゅう)をまとい、右手に金剛杵(こんごうしょ)を持つこの世の者とは思えぬ姿があった。
「我は帝釈天なり。この世の行く末を考える場を持つ。ときが来たならば集え」
そういって、光玉は真魚の口に飛び込んできた。真魚の全身は目を開けられないほどに光り輝き、何事もなかったかのようにもとに戻った。
「谷響(たにひびき)を惜しまず、明星来影(みょうじょうらいえい)す」
摩訶不思議な出来事を振り返り、真魚はひとりごちた。虚空蔵求聞持法の成果が帝釈天との出会いであろうとは、ゆめゆめ思いもしなかった。
真魚は窟を出た。いつの間にか空が白んでいた。曙光(しょこう)が海上を走り、黄金の敷かれた道のように見える。眼前に広がる空と海は、無限へとつながっているかのように果てしなかった。
「空と海……空海(くうかい)か。うむ、悪くない」
真魚は、これまでの名を捨て去り、空海として生きることを固く決意した。
夏の終わりであった。
空海は高円山(たかまどやま)の麓にある石淵寺(いわぶちでら)の本堂にいた。師である勤操が開山した寺であった。数年前、帝釈天の啓示を受けた空海が勤操に文(ふみ)をしたためたところ、それほど大切な会合が持たれるのであればいつでも寺を貸そうと快く応じてくれた。
眼前には帝釈天、そして桓武天皇が座している。桓武天皇と謁見することになった空海は、蓬髪を剃毛し、こざっぱりと身なりを整えていた。
室戸崎で光玉の中にいた帝釈天のからだは、まばゆいほどの光を放ちつつ、存在自体が透けて見える。面長で切れ長の目は鋭く、痩身ながら筋肉質の体躯と太い首を持ち、その雰囲気は屈強な戦士か将軍のようであった。
その存在が人でないことはひと目でわかるものの、相対する桓武天皇はさすがの貫禄で、まるで動じていない。
本堂の一隅では、菅原清公(すがわらのきよきみ)が墨を磨(す)っていた。達筆を買われ、会合の書記を任されていた。清公の所作はぎこちなく、尋常ではない緊張がありありと伝わってきた。