【前回の記事を読む】真魚(のちの空海)、夜の山中で僧と語らう「今、すべてを吐き出したあなたは、新しく生まれ変わりました」

第二章 天部の将軍、帝釈天と合心した空海の歩み

「草庵を結ばず野天で眠るとは、いかなる理由でしょうか」

「空が屋根となり、雲が幔幕(まんまく)となり、眠るときはこの肘が枕になります。夏が来れば山に吹く冷風で涼をとり、冬が近づけばこうして焚火で暖をとります。求道(ぐどう)のみを考えて修行をするのであれば、それで十分です」

「仏法の修行とは、いかなるものでしょうか」

「あなたは虚空蔵求聞持法 (こくうぞうぐもんじほう)をご存じですか」

「いえ、初耳です」

「虚空蔵求聞持法とは、無限の知恵と慈悲を持つ虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の真言を一日一万回、百日間で百万回唱える修行です。この修行により、あらゆる経典を理解し、記憶することができるのです」

真魚は勤操の言葉に一筋の光明を見た。雷に打たれたような衝撃であった。もしすべての経典を理解できるのであれば、儒学や漢学を学んでも達することのできなかった真理にたどり着けるかもしれぬという期待に胸が膨らんだ。

「その真言とは、どのようなものですか」

真魚は声を弾ませた。

「ノウボウ、アカシャ、キャラバヤ、オン、アリキャ、マリボリソワカ」

「ノウボウ、アカシャ、キャラバヤ、オン、アリキャ、マリボリソワカ……」

真魚は勤操を真似て真言をつぶやき、百万回唱えねばならない修行の厳しさに思いを馳せた。

「ひたすらに真言を繰り返し、すべての想念を心から追い払うのです。森羅万象と溶け合い、阿頼耶識(あらやしき)へとたどり着いたとき、修行の成果が見えましょう」

「勤操さま、私はやるべきことがわかりました」

「ほう。どうされますかな」

「大学を辞して、仏道へ進みます。山林修行に打ち込み、虚空蔵求聞持法の真言をひたすらに唱えましょう。風をつなぎ止められぬように、誰が私をつなぎ止められましょうか」

「あなたを縛るものは何もありません。あなたが決めた道であるならば、あなたは何かを見つけるのでしょう」

「勤操さま。偶然の出会いではありましたが、感謝の念に堪えません」

「道を見定めたのはあなたです。私は薪でしかありません」

「いずれまた、お会いできるでしょうか」

「願わば思いは叶いましょう。その日を楽しみにしております」

真魚は勤操に深々と頭を下げた。すると、深更(しんこう)であるにもかかわらず、鳥たちが真魚の新たな出立を祝うように鳴いた。

大学を辞した真魚は、斗藪(とそう)と呼ばれる山林修行に打ち込んだ。金峯山(きんぷせん)に籠った後、故郷の讃岐に戻った。楠(くすのき)の葉の照り返る山々の空気を吸い込むだけで、真魚の心は安らいだ。