この一節を引用したうえで、小林は、次のように述べる。
言わばそういう不安状態のうちに、主人公を摑んで離さぬ為に、作者はどれほどの努力を必要としているかを想(おも)いみるがよい。もはやそれはあれこれの観察だとか分析だとかいうものの力ではない。
言わば絶対的批判の前で七転八倒する主人公に、面(おもて)をそむけず見入る作者の愛の緊張である。読者は、それを想いみて信ずるがよい。
若し読者が、主人公の精神が限りない疲労を感ずるという、あの主人公にはわからぬ「並々ならぬ重大な或る物」を信ずるならば。――それは何であるか。作者が答えなかった事を、僕が答えてはならないのである(強調は引用者による)。(2)
小林秀雄は、主人公を悩ます「並々ならぬ重大な或る物」の正体を、軽々しく言葉にすることを慎重に避けているかのようである。
むしろドストエフスキーは、読者に対して、理解ではなく「共感」を求めているのだ、ラスコーリニコフの「感覚」は言葉で説明することで伝わるものではなく、むしろ言葉による説明は、それを読者が皮膚感覚として共有する機会を損ねてしまう。小林は、そのように言いたかったのかもしれない。
ニコライ・ベルジャーエフ
ベルジャーエフは、ラスコーリニコフや、同じ作者の他の作品に登場する同様に悲劇的な人物たち、すなわちスタヴローギン(『悪霊』)やイワン・カラマーゾフ(『カラマーゾフの兄弟』)の運命を、「我意としての自由」が「自分自身をほろぼし」たものであると説明する。
内面から、内在的に展開する神的原理が、人間の良心を打つのである。炎々と燃える神の火を浴びて、人間は、みずから選びとったあの暗黒と空虚のうちに焼死する。これが人間の運命であり、人間の自由の運命である。(3)
(1)小林秀雄「「罪と罰」について Ⅱ」(一九四八年十一月)『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫 一九六四)所収
(2)同前
(3)ニコライ・ベルジャーエフ、斎藤栄治訳『ドストエフスキーの世界観』白水社 一九七八。ベルジャーエフ(一八七四―一九四八)は、ロシアの哲学者。キエフの貴族出身。ロシア革命後にパリに亡命した。
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