【前回の記事を読む】「来られないって聞いて、ものすごく落胆した自分に気づいたんだ」心配でたまらなかったと言う彼。私の家に突然来て…
今宵、巣鴨の劇場で
どうすれば相手に憎まれないか熟知しているようでもあった。征児に生まれついて備わった才能なのだろう。そんな武器を使わなくたって私は少しも怒ってなどいない。むしろ加代子に感謝したいくらいだった。
「何か足りないものがあるかと思って、ヨーグルトとゼリーを買ってきた。熱があったら買い物にも行けないだろ? 駅前のコンビニのだけどね。これなら熱があっても……」
征児が最後まで言い終わらないうちに、菫子は彼に抱きついていた。本当はずっと前からこうしたかったのだと菫子は征児の胸のぬくもりを感じながらそう思った。
「スミちゃん」
一瞬戸惑ったように体を強張らせた征児だったが、すぐさま菫子以上に強く、彼女のまだ少し濡れているパイル生地越しの体を締めつけてきた。
その日から、征児はたびたび菫子のアパートを訪れるようになった。週に一〜二回といったところか。菫子の部屋で菫子の作った料理を一緒に食べ、テレビを観たり、たわいのない話をしたり、時には熱っぽく演劇の話をする征児を菫子がじっと見つめる。
「私たちは恋人同士なんだろうか?」
憧れの征児と思いがけず愛し合う仲になり、ほとんど有頂天でありながら、その疑問は常に菫子の心にくすぶっていた。
なぜなら征児から明確な愛の言葉や告白がなかったからである。ベッドの中で「好きだよ」「初めて見た時から君が好きだった」などと言ってくれることはあった。が、それ以外の時、要するにお互いが衣服を着用している時に、それらの言葉を征児が口にすることはなかった。
一番気になったのは、自分の話はしても、征児が菫子の仕事の話や生い立ちなどを一切聞いてこないことであった。
仕事でどんなに嫌なことがあっても、征児が来ると全てのことが帳消しになり、菫子の一日は薔薇色に塗り替えられる。だからこちらから征児に自分のことを話す必要がなかった。
そういう意味で、征児の話さえ聞いていれば満足には違いなかったが、もし征児が自分のことを好きなら、こちらのことを知りたいと少しは思うものなのではないだろうか。
劇場に行くたびに征児にもらう一輪の薔薇が玄関の靴箱の上に飾られている。薔薇を見れば、征児の気持ちを信じられる気がした。菫子にとっては征児が薔薇の花そのものだったのである。
実際、古い菫子のアパートの部屋は、征児が来ると、いささか暗くなった照明をその時だけ取り替えたのではと思えるほど明るくなった。
一方征児が来ない日は、もんもんと気を揉むことになる。以前、階段の下で出会ったファンと思しき女のところに行っているのではないか? 征児を求めているのはあの女一人ではないだろう。私の知らない他の大勢の女のところに、征児は順番に通っていたりして。