しかし当時はサンフランシスコの方が一倍半くらい大きい都市であった(1990年、オースティン46万人、サンフランシスコ72万人)。ビジネスからすると、さらに差は大きかっただろう。

大都会の小さな会社だったが、若者と幹部との関係も悪くなかった。創業者夫婦は中国人だったので、同じ東洋人として優しくいろいろと教えてもらった。そういう意味では楽しかった、と長男は言う。

そこで出会った同い年の建築家とはいまでも仲がいいし、たまたま近所に住んでいるので商店街などで時々会う。息子の嫁も両親は香港出身で中国語ができるため、二人は広東語で話すくらい親しい。

とはいえ、仕事はあまり面白いものではなかった。トイレとか階段、それに押入れの設計とか、学校で学んだことはほとんど使う機会がなく、自分のようなせっかちな性格には合わないなとすぐ認識したらしい。

建築の業界はまだ親方と見習いといった師弟関係が強く、徒弟制度のようだったので、長いこと単調で辛い仕事が続きそうで、自分は我慢できないと思ったという。もっとスピードが速いスタートアップ業界に移ることに決めた。

2年ほどで建築は自分のこれからの目標ではないと見切りをつけ、ちょうどその頃出てきたインターネットのビジネスに転向。インタラクティブ広告とオフライン広告などの営業の仕事だった。

入社してすぐ「これだ!」と思ったそうだ。やはり、変化や結果が出る速さはこっちの方が合っていたのだろう。さらに入社して間もなく、新規株式公開まで経験するという幸運にも恵まれた。一度そのような現実を目の当たりにして、よし、もう少し本格的にビジネスについて勉強した方がいいと痛感して大学に戻ることにした。

といっても、今度はビジネススクール。カーネギー・メロン大学(Carnegie Mellon University)でMBA(経営学修士)を取ろうと決めた。

 

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