翌年の四月には高等女学校の教師の紹介もあり、横浜の語学専門学校に入学した。語学専門学校といっても正式なものではなく、地元財界の有力者の後援により、キリスト教系の女学校の先生や貿易関係の実務に携わっている外国人が集まって開いた夜間の語学専門学校だった。

私塾に近いもので、公的に認められているものではなかった。生徒は三十人程で、地元や近隣の女学校の卒業生が中心で、奈津のように地方からも数名が来ていた。

多くの生徒は昼間は働きながら、実務に役立つ会話や貿易関係の専門的な知識を身につけたいと考えている人たちだった。授業は山手にある高等女学校の部屋を借りて行い、平日は夜間の三時間、教師の都合では土曜日や休日の午後に講義が振り替えられるときもあった。

奈津の生活は横浜に変わり、見聞きする日常は一変した。叔母の店は日ノ出町にあり、奈津は叔母の家から専門学校に通った。

大岡川に沿って大きな商家や問屋が建ち並び、人々で賑わう川沿の通りから奥まったところには閑静な住宅街があった。隣の黄金町には、貿易や商売で成功した商人の大きい屋敷があり、川に沿って植えられた柳の並木が涼しげな、美しい街並みだった。

大正十二年の関東大震災で横浜の街や港は壊滅的な被害を受けていたが、奈津が来た頃にはほぼ復興し、再びかつての賑わいを取り戻していた。港には多くの外国船が出入りし、街にはフォードの車が走り、映画館や劇場は人々で賑わっていた。中華街には多くの店が立ち並び、店先で蒸す中華饅頭の甘い匂いが漂っていた。

奈津には来年から女学校に進む妹がおり、実家に生活費や学費の仕送りは頼めなかった。叔母夫婦は生活費はいらないと断ったので、その代わりに塩元売捌人(しおもとうりさばきひと)の塩問屋の手伝いをすることになった。

塩問屋の仕事は塩専売局からの買い付けや船からの陸揚げ、運搬や小売店への配達など力仕事が多く、男衆の力仕事が主だった。女手(おんなで)は帳簿付けや伝票整理くらいで、奈津がすぐに手伝えるような仕事はなかった。

そのため、問屋の横に併設された小さな乾物店の店番を任された。店頭では塩とワカメやアラメなどの海藻や煮干などの乾物の小売りをしていた。しかしその仕事はいささか奈津の期待外れだった。

 

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