人生行路
ゲーテ「自分の人生行路にけちをつけるつもりはさらさらない。しかし、実際はそれは苦労と仕事以外のなにものでもなかったのだよ。七十五年の生涯で、一月(ひとつき)でも本当に愉快な気持で過ごした時などなかったと、いっていい。たえず石をくり返し押し上げようとしながら、永遠に石を転がしているようなものだった。」(上一二二頁)
社会的地位と名誉に恵まれ、学識や見識を備えているゲーテほどの人の人生が、それほど苦しいものであったのは、なぜなのだろうか。ゲーテが別の箇所で述べている次の言葉が、この疑問を解くヒントになりそうだ。
ゲーテ「われわれは、朝起きたときが、一番賢明である。が、また、一番心配も多い。というのは、心配はある意味で賢明と同義だ。それは、受け身の賢明さだろうが。愚者は、けっして心配をしない。」(上一八三頁)
この言葉もわかりにくいが、あえて推測すると、次のようなことであろうか。
身辺に何らかの出来事が起きたとする。
賢明な人は、その出来事から波及して、どのような出来事が誘発されるかを考える。誘発されるかもしれない出来事は一つとは限らない。多くの場合、複数、さらには多数であろう。それらの出来事に対して、自分はどのように対処すべきか。多数の関係者がいる場合、それぞれの人は、どのように反応するだろうか、等々。
賢明な人は、このように、筋道だって思いめぐらすことができるから、考えるべきことは、際限なく湧き出てくる。愚者は、筋道だって思いめぐらすことができないから、途中で思考を停止する。ゲーテの言葉で言えば、「愚者は、けっして心配をしない」。
ゲーテは、「賢明な人」であったから、多くの心配に取り巻かれて、人生の大部分を過ごしてきたに違いない。
今試みに、『源氏物語』の登場人物のうちから、「賢明な人」と「愚者」を挙げてみよう。
「賢明な人」としては、紫の上と浮舟とを挙げたい。この二人は、人生において遭遇する様々な出来事に真正面から向き合い、思いをめぐらし、悩み、そして自分として納得のいく結論を出して、生きた人であった。
これに対して、自分の行為によっていかなる結果が生じるかを真剣に考えようとせず、何らかの結果が生じた場合にも、その結果について、良心の呵責(かしやく)に悩んだり、罪悪感を抱いたりすることがなく、責任をとろうとしない人物。
光源氏はそのような人物であった。すなわち、光源氏は「愚者」であった。さらに言えば、光源氏のような人物を、サイコパスと呼ぶのだろう。
【イチオシ記事】翌朝「僕はどうだった?」と確かめると、「あんなに感じるものなのね。昨日の夜は初めてとろけそうなくらい…」と顔を赤くして…
【注目記事】母さんが死んだ。葬式はできず、骨壺に入れられて戻ってきた母。父からは「かかったお金はお前が働いて返せ」と請求書を渡され…