【前回の記事を読む】友達の顔面にはナイフが刺さり、パジャマは赤く染まっていた…助けを呼ぼうと口を開いた瞬間、私の口はナイフに貫かれた。
サイコ1――念力殺人
「そう。あの子も大丈夫かしら。強がってはいたけど、あんなことがあったのに今日も出勤だなんて。私は休みなさいって言ったのよ。それでなくても毎晩遅くまで診療に一生懸命で、いつも帰ってくると疲れ切って着替えもせずにソファにひっくり返って大口開けたまま眠り込んじゃうのよ。
主人に言ったら、最近は研修医に残業させないように病院も気を配っているらしいんだけど、千晶は要領が悪いのかしらね。結局仕事が終わらずに遅くまで残っているらしいのよ」
麻利衣にとっては残業すら羨ましく、毎日家でゴロゴロしている自分に罪悪感を覚えた。
「ところで鍋本さん、素敵な方ですね」
麻利衣は話頭を変えた。
「そう思う? でもね、実は最初大変だったのよ」
沙織は何故か声を潜めた。
「え?」
「ほら、うちは一人娘なもんだから小さい頃から主人が過保護でね。高校卒業するまでは毎日車で送ってたし、門限は19時。男の子との交際も禁止されてたのよ。
そういうの最近、ヘリコプターペアレントって言うんでしょ。だから彩斗さんとおつきあいすることになった時も、『そんな勝手なことは許さん』ってすごくおかんむりだったのよ」
「そうだったんですか? でもそんな風には全然見えませんでしたけど」
「彩斗さんが一生懸命主人の機嫌を取ろうとしていたからね。やっぱり営業だから人に取り入るのが上手よね。でもそれでも最初は信用してなかったみたい。最後は探偵か何か雇って素行調査までしてたみたいだから。
でもそれでも何も出なかったからやっと信用する気になったみたい。でもこれからが大変よ。彼も私とおんなじであの人には逆らえなくなるからね」
沙織は夫に対して相当ストレスが溜まっているようで、その後も延々と麻利衣に愚痴を聞かせた。
「ごめんなさいね。愚痴ばっかり聞かせて。タクシーを呼ぶから待ってて」
「いえ、電車で帰りますので」
「そう? じゃ、またいらしてね。国試、諦めちゃだめよ」
「ありがとうございます」
麻利衣は礼を言うと増田家を辞去した。帰り道に眼鏡店に寄りレンズを注文した。
「どのくらいでできますか?」
「2週間くらいです」
「2週間……それまでレンタルとかないですか?」
「レンズだけの場合はやってないんですよ」
あと2週間も割れ眼鏡で生活しないといけないのかと思うと麻利衣は愕然とした。その間はスーパーに行く以外は部屋に引きこもるしかない。コンタクトレンズを買う金もないし、就活はそれ以降に延期するしかなかった。
割れ眼鏡を人に見られないようにうつむいて電車や街中でこそこそ歩いていると、なおさら自分が情けない存在に思えてきた。
月曜日の午前中のスーツ姿のサラリーマン、笑いながらおしゃべりして遊びに出かける女の子たち、いずれも彼女には無縁な世界の人々だった。それどころか彼女は独りこの世界から爪弾きにされ、全ての人々から嘲笑されているように感じた。千晶だって内心は――。
心の奥底から湧き上がってくる黒い嫉妬の炎から逃げ出すようにして彼女は薄暗い自分の巣窟に帰り着いた。