日本の伝統的な考え方というのは、まず公がありきで、「公」の安定と「私」の安定を延長線で捉える。家の主が元気であれば、家族は安泰と考えるようなものである。公と私を対立関係で捉える西洋とはスタンスが対照的である。

そのことは公の意味を調べると分かる。「『やけ』は『家・宅』。『おおやけ』の原義は大きな家」(精選版『日本国語大辞典』)であり、それが「国家の規模にまで拡大されたことにより、天皇の朝廷が『公』とよばれ、……中世以降の国家にも継承される」(尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書、二〇〇〇年) こととなる。

このような国家観において、権利といった概念が出てくる余地はない。権利は権力者に対抗する「武器」であり、家族内において武器は使わないからである。

人権も同じである。要するに、人間として扱われていなかった歴史があったので、これからは人間を守れと言っているようなものである。先進的でも何でもない。一種の錯覚であり、思い込みである。

そして、天皇家も家族主義的国家観で統治を考えていたことが分かる資料が十七条憲法である。「上行えば下靡(なび)く」(第三条)、「共にこれ凡夫」、「相共に賢愚」(第十条)といった言葉を見ると、国家という共同体の中で共に生きる仲間として民衆を捉えていることが分かる。

六八〇年頃には、対外的な戦後処理がほぼ終わる。外患の憂いがなくなったと思ったのか、天武は六八一年に記紀編纂を命じる。編者は太安万侶である。同じ人を編者としたので紀記という言い方をするようになるのだが、天武の思い入れは『古事記』の方がはるかに強い。

そこに日本国のあり方、天皇のあり方、国家の存亡のメカニズムを宇宙の原理と繋ぎ合わせて書き遺す必要があった。時間の猶予はあまりない。位が低くても能力さえあれば良い。むしろ、高くない方が好都合である。高い者を使えば、誰が採用されたかということで疑心暗鬼を生み、機密プロジェクトなのにそれが外に漏れる恐れがある。

身分が低き者を宮中に上げるという異例の扱いをして編纂事業の助手として使いながら、『古事記』プロジェクトは極秘に、なおかつ『日本書紀』と併行して進められていく。

天武は、何かのきっかけで日本の国のあるべき姿を見出したのであろう。その決意のしるしが「天皇」という呼称である。「皇」は中国の皇帝が使う漢字なので、華夷体制下で使うことはあり得ない。つまり、中国や朝鮮半島の国々とは違う道を歩むという決意表明を天武はしたのである。

試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

 

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