その他に、原油の臭いや味がする(実際に原油を飲んだことはないが)“サンディミュン”はなかなかのパンチの効いた服用薬だった。
一番辛かった治療は、血奬交換だった。その治療は阪大病院ではできなかったので、千里救命救急センターのICUに数カ月間だけ転院した。
血奬交換は、自分の血液から血奬を取り去り血球部分を戻す治療法だ。私の簡単な理解では、自分の血液を取り出してろ過し、良い血液だけを体に戻すという治療法だった。
血漿交換は一時的には効果が出ていたが、持続性はなかった。救命センターでの治療は一旦打ち切り、また阪大病院に戻ることになった。
救命センターの面会時間は厳しかった。母は一日二回お昼と夕方にお弁当を持ってお見舞いに来てくれた。
母は、面会時間以外はその当時、吹田市に住んでいた母の兄である伯父の家で休ませてもらっていた。伯父、伯母と歳上の従兄もよくお見舞いに来てくれていた。
多量のステロイドの長期使用の副作用として、普通は大人がなる白内障(水晶体が白く濁り視力が低下する)にかかってしまった。手術を決断した時には、私の視力は明るいか暗いかだけを判別できるだけだった。
両目を手術した時、私は一〇歳だったと思う。この時に両目の水晶体を失った。
現在も視力は良くはないが、牛乳瓶の底のような眼鏡(ケント・デリカット眼鏡、分かるかなぁ~)か、特殊なコンタクトレンズと眼鏡の両方を使用して見えている。
喜ばしいことに、ほんの少しずつだが私の関節痛と発熱の症状は安定していき、中学校入学まであと数カ月を残し、阪大病院をやっと退院することができた。
次回更新は12月16日(火)、18時の予定です。
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