今回の戦は、伊達家としては自ら敵方領地を削り取った訳ではなく、その反面、地方知行制の下では、家臣への恩賞を土地で配分せねばならず、また出費ばかりが嵩む、頭の痛いものであった。
新たに信氏に、恩賞として何箇所か下賜された知行地の一つに、かつての伊達三河守盛重(国分盛重)所領の一部で、盛重出奔後は没収され、一時的に蔵入地となっていた、宮城郡芋澤村吉成山の小規模の田畑があった(今の仙台市青葉区吉成)。
盛重はかつて宮城郡に広大な知行地「国分荘」を有していたので、伊達家としては、同人出奔後の土地収公で今後の恩賞用の「在庫」となる土地を確保できており、功績ある家臣らに、何とか恩賞を配分できたのである。
吉成山の地は、仙台の城下町の西北、小高い山の間に開けた小盆地である。二十一世紀の今、仙台市のベッドタウンとして、新興住宅地が広がっているが、当時としても仙台城からほど近い、わずか一里と二十五町。
馬に乗れば短時間で城へ参勤できる便利さから、信氏は家屋敷(在郷屋敷)を志田郡宮内村からここに移し、宮内村の田畑は、親族から選んだ土地管理人である「地肝煎」に経営を任せることとした。
こうして信氏は、十貫文(百石)の加増により、都合三十貫文=三百石の領主となった。
信氏は、新築の吉成山在郷屋敷から馬に乗り、芋澤街道を経て一路仙台城へ向かった。
道中の「国見峠(くにみとうげ)」は、城下町と、古来和歌に詠われた宮城野の広大な草原、さらに大海を一望できる大絶景が眼下に広がる、信氏お気に入りの場所となった。
「儂が望んだこと、全て成し遂げられた。亡き備中守様にも面目が立つし、侍冥利に尽きる。もはや思い残すことは何もない。あとは倅の三右衛門に家督を譲り、孫の満蔵の成長を見守るだけだ……」
国見峠で馬を止め、雄大な景色を眺めながら、信氏はしばし感慨に浸った。
しかし、信氏の期待と思惑は、思わぬところで暗転する。