【前回の記事を読む】政宗から「中将」と呼ばれるようになった阿古。彼女がこれまで積み上げてきた豊かな教養を伊達家の誰もが必要としていた
第一章 忠と義と誉と
文禄五年(一五九六)~正保二年(一六四五)
信氏、宿願成る
「備中守様、器が大きく慈悲深い方ではあったが、やはり、御自身と御身内には殊のほか厳しいお方でもあった……」
信氏は、かつての文のやり取りで、小十郎には苦言を呈してばかりだった景綱を思い出した。
信氏二つ目の目標、豊臣家への仇討ちは、豊臣宗家の滅亡という形で本懐を遂げたことは、もはやいうまでもあるまい。
三つ目の目標、知行加増も、思いのほか簡単に達せられた。今回、新たに信氏へ発せられた「知行宛行状」は、このようなものである。
…郡…村… ○貫文
宮城郡国分荘芋澤村之内吉成山(こくぶんのしょういもざわむらのうちよしなりやま) ○貫文
戦功顕著につき右加増と為(な)し、都合三十貫文(目録等別紙)全て領知す可き者也、仍て件の如し
元和二年○月○日 松平陸奥守(花押)
伊藤肥後とのへ
※政宗は、幕府から松平姓を与えられ、慶長一八年(一六一三)から「松平陸奥守」を正式な名乗りとしている。