【前回記事を読む】「負ける戦はするな」――毛利元就の教えを無視した輝元と、関ヶ原の裏で進んでいた家康の策略とは
天狗の申し子
「しかし、輝元公には家康公ほどの天下を取るという大目標があった訳ではない。その場しのぎで場当たり的な反応をすることしか能のない人だった。
家康公から『わしが上杉征伐で大坂城を留守にする間は大坂城に残って秀頼を守ってくれ』と頼まれれば『勿論です』と応じ、
石田三成から『家康は自分の勢力だけを拡大して豊臣政権を乗っ取ろうとしているから懲らしめてやりましょう。その反家康側の旗頭には毛利輝元殿をおいて他にいません』と煽(あお)られると『そうだよな』と言って唯々諾々と反家康の大将を引き受けてしまう。このことが長州藩全員が苦労させられる根本原因となったのじゃ」
晋作はニコニコして「父上はつまり、私に家康公になれ。元就公になれと仰りたいのですね」と確かめた。小忠太もニコニコして頷いた。三日目の講義は「ここまででお仕舞い」と小忠太が宣言して終わった。
四日目は吉川広家の家康公との密約の話だった。
関ヶ原決戦の流れが見えた時、家康が熱心に吉川広家を口説いた。その内容は、毛利の領国を丸ごと認知するから、関ヶ原決戦の折には吉川軍は動かないと約束してくれというものだった。
歴史の流れを冷静に見切っていた広家は、家康側の勝利は揺るがないと見ていたからこの密約の誘いに乗り、輝元には告げることなく家康との約束に合意した。
決戦が始まると西軍最大の兵員数を誇る毛利軍は一歩も動かなかった。しかも途中から毛利側の小早川軍が家康側に寝返り、西軍は撫で切りにされ、関ヶ原決戦は開始六時間で家康側の圧勝で決着した。
こうした経緯を踏まえて、家康は毛利家取り潰しを決め、吉川広家がそれでは話が違いすぎると猛反発した。その結果、現在の長州藩が誕生し輝元は藩祖として生き延びた。
小忠太は吉川広家の利口さと、毛利本家つまり輝元への律儀さを評価するという父の言葉が強く記憶に残っていた。
五日目は元服の日から続いた小忠太の講義のおさらいの日だった。
「負ける戦はするな。戦は謀略だ。つまり謀略で負けない生き方をせよ」 これが高杉家当主の小忠太が後継者となる晋作に贈る餞(はなむけ)の言葉だった。
小忠太は最後にこう付け加えた。
「戦には勝つか負けるかしかない。また戦は自分から好んでするものでもない。だから野心を持たず自己主張せず常に先頭を行く者に付いて行くことに甘んじることこそ高杉家安泰の秘訣じゃ」
この父の言葉は、短くとも強い光を放つ晋作の生涯を通じて躍動する力の源泉となり心棒になる。