【前回記事を読む】破天荒な幼少期から始まった高杉晋作の伝説! 毛利家の落日から舞い上がる"天狗の申し子"

天狗の申し子

その親子の家は同じ堀内にあり、石高は晋作の家より一桁多かった。

「高杉家では自分の子にどんな躾をしているんですか。本来なら普通にものを言うことも許されないほど家格が違うのに、こともあろうに神聖な円政寺の境内で、天狗面を使ってうちの子を怖がらせて泣かせるなど許せません」

この母親は道と同じくらいに若く子育ては初めて、しかも第一子が嫡男ということもあって神経質になっていた。社交的な付き合いは近所付き合い同様に苦手だったが、晋作と同じ年くらいの嫡男が泣いて帰ってきたことには我慢出来なかったのである。

晋作は幼い頃から近所の天狗寺を遊び場として育った。

子供の喧嘩を巡る母親同士の角突き合いに道はすぐに詫びたが、内心では相手から「家格の違い」が持ち出されたことに大いに憤慨した。

道はその場では自分の言い分を抑えていただけに、その日の夜の夫との寝物語でこの憤慨を打ち明けた。道は「世間をブリ回っしゃりさん」という信条で晋作を育て、子供には子供の世界があるという考えから、子供同士の悪戯に介入してくる他家の母親の過保護は不当だと小忠太に訴えたのだった。

小忠太は、三日後に道に言った。「晋作の元服の儀式を三カ月早めよう。そして元服を機に天狗面の悪戯はやめるよう言おう」。道も賛成した。

騒動の元になった天狗の面は、高杉家の近くにある真言宗金毘羅社円政寺の象徴だった。円政寺は神仏混淆で長州藩の祈祷所でもあったから、拝殿に大きな天狗の面が掛けてあったのだ。