天狗の申し子
一六〇〇年の関ヶ原の戦いで惨敗した毛利輝元は、中国地方全九カ国を領土とする大大名から周防 (すおう)・長門(ながと)の二カ国、今の山口県の五分の一の領土に激減されながらも長州藩の藩祖として生き残った。
そして家来達は広島から日本海側の未開の三角州の土地に移住した。家来達には激減した領土に応じて五分の一の待遇しか与えることが出来ず、辛うじて藩士に認定された者でも扶持は五分の一であった。
輝元に付いてきた士族はこの新天地でしか生き延びる術(すべ)はなかったから、殆どの藩士は中間(ちゅうげん)やあらゆる身分に身を落とすことを厭わず、養子縁組などの手段も駆使して富農を中心に受け入れてもらって生き延びようとした。
加えて長州藩は徳川幕府から関ヶ原の戦い以前に徴収して既に使い果たしていた旧領土の一年分の年貢を新領主に返済せよと命じられ、長州藩民全員が塗炭の苦しみを味わった。
一六〇三年。日本海沿いの阿武川が造ったほぼ無人の三角州が萩と名付けられて防長二カ国を領土とする長州藩の城下町と定められ、人口三万人を擁する長州藩の歴史が始まった。
この時から二三〇余年後。幕末の長州藩は十一代藩主の失政で藩財政が大赤字となり、藩存続の深刻な危機に直面していた。
その為村田清風 (せいふう)に代表される抜本的な藩政改革が断行され、その流れは黒船来襲で大揺れに揺れる日本にあって、吉田松陰や周布政之介(すふまさのすけ)に引き継がれていた。
この時代背景の中で長州藩に若き救世主が登場した。若者は自分の直感と洞察力通りに言動する舞の名手で、歴史の嵐に真っすぐに向き合い、嵐と一体となって幼子のように舞った。