安芸の北で小領主から身を興し戦国大名となった毛利家十二代当主元就公の言い付けにある「天下のことには口を出すな」という戒めを守らず、徳川家康と対抗する側の謀略渦巻く天下盗りの旗頭 (はたがしら)に祭り上げられ、それを唯々諾々(いいだくだく)と受け入れて惨敗した。その結果、毛利領は防長二カ国だけとなった。
人柄が純粋だからというだけでは謀略戦の大将として臨む資格はない。むしろ謀略戦では、純粋さは要の人の魂を揺さぶる力があると同時に、敵からは格好の標的にされるという短所がある。
輝元公はこうした基本についての自覚が全くなく、したたかな徳川家康にいいようにされた。小忠太は、こうした家訓を晋作の元服の時に言い伝えようと決心していた。
元服は晋作十五歳の誕生日とし、そのお祝いを天狗寺でやってもらった後、晋作に五日間の講義をしてその中で伝えようと考え妻の道に相談していた。
晋作の母・道は歌舞音曲が好きな粋人で、晋作には「男と生まれてきたからには世間をブリ回して、世間から一目も二目も置かれる偉大な人になれ」と諭して晋作を育てていた。
道は夫小忠太の考えに賛成して「二人できちんと祝い、そして小忠太が考える高杉家の家訓を晋作に分かりやすく伝えましょう」と答えてくれた。
そんな折の夜。晋作がいつものように悪戯して泣かした子の母親が晋作の家に怒鳴り込んできた。晋作四歳の時のことである。
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