「そうね、もうかれこれ十年になるわ。どう見ても私、性格的にはフラメンコよね。でも最近ファドに出会って衝撃を受けたの。重々しくて、どことなく哀切感が漂っていて。もの悲しい曲も多いけど、それがなかなかのものなのよ。長い人生、いろいろ考えなければと気づいて、先週このCDを買ってきたの。凄く良いでしょ!」
「今日はやけに哲学的ですね。でも、言われてみれば確かに気になる歌です。もう一度初めからかけてくれませんか?」
「そうでしょ、分かる? これは、四十、五十にならなければ分からない歌だわ。そうねえ、人生の半ばで過去を振り返る歌かな?」
宗像俊介は四十歳半ばを少し超えたフリーランスの写真家である。これは天性なのだろう。若い頃、独自の視点を築き、新進気鋭と騒がれ、数々の賞を独り占めしたこともあった。
しかし大勢の助手を使い、広いスタジオを持ち、夥しい仕事に囲まれ、こなしていくことは彼の性に合わなかった。
だから最近は納得できる仕事を選び、毎年ささやかな写真展を開き、数年ごとに、写真集やエッセイ集などを出版してきたのだった。
永年住んだ江古田のアパートを引き払い、北青山の裏にスタジオとして格好の部屋を見つけ、仕事場を移して三年が過ぎようとしていた。
夕方五時の締め切りのため徹夜になってしまったが、八十点の写真のチェックと選定を済ませたのだった。
大型のライティング・テーブルには、組になって二点の半切モノクローム写真が載せられていた。下から光を当てられたプリントは、まるで巨大なポジ・フィルムのように、乳白色の蛍光ライトの上にふわっと浮び上がった。
宗像は慣れた手つきで隅々までルーペを移動させ、その階調と粒状性を確認していたのだった。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商